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2006年03月31日
「札幌ドーム周辺」
イベントが行われている時の札幌ドームは、地下鉄福住駅からドームに向かって歩く人の列が出来て、秘境の対極にある。しかし、イベントの無い時の札幌ドームは秘境となる。札幌ドームの秘境時には、部外者としては外観を写真に収めるところが秘境探検の精一杯のところで、遠目には雪山かと錯覚するこの巨大な建物の周囲をうろうろして来た。
札幌ドームは野球場とサッカーの球技場を切り替えて利用できる。サッカー場用の天然芝をドームの外で養生し、試合時にホーバリングステージを圧搾空気で浮かしてドーム内に取り込む仕掛けになっている。球場の方で言えば、両翼100m、中堅122mの巨大な空間なので、選手が小さく見え、著者の感想を言えば野球はTV観戦の方が良い。固定客席は4万2千程度で、5万4千人は収容できる。
雨や雪が降っても野球やサッカーが可能なこのドームの助けもあって、プロ野球の「北海道日本ハムファイターズ」やサッカーJリーグの「コンサドーレ札幌」のホームグラウンドとなっている。ここで、「コンサドーレ」の名前は広く募集したものから「道産子(ドサンコ)」を逆さ読みにして命名したものが選ばれた。マスコットは北海道の天然記念物の「しまフクロウ」をキャラクター化したものである。
さて、秘境探検に戻ると、ドームは写真のように巨大な饅頭の屋根に展望台が突き出している。雪の残る周囲の坂に写真のようなオブジェがあり、奇妙な感じの空間を演出している。ドームに沿って伸びる国道36号線から見ると、写真のようなコンクリートとガラスの建築物が見える。その脇は遊歩道となっているけれど冬期間は積雪のため閉鎖されている。足を踏み入れることができないドームの周囲は、ただ眺めるだけの秘境である。
2006年03月30日
「北1条地下駐車場歩道」
この場所は税金を注ぎ込んだ地下宮殿と形容したくなる。今回の秘境探検でこの場所にはじめて足を運んで仰天した。これは地下駐車場の通路というより、北京郊外の明の十三陵の現代版を髣髴させる地下空間である。人気の無いところが陵墓の比喩を補強する。
一ブロックの長さで、163台の駐車場の通路のために、地上の緑豊かな並木まで伐採して、ほとんど人が歩かない地下宮殿みたいな歩道を作る必要があったのだろうか。因みにこの地下駐車場建設費用を駐車台数で割ると、1台(1区間)当たり4300万円になるとの数字をインターネットで見つけた。これはもう収支を合わせる経済活動の範疇を超えている。つまりは経済効果なんか眼中にない陵墓建設と同じ発想ではなかろうか。
地下歩道は雪国の冬の生活を快適にする上で必要な空間である点は確かだろう。お年寄りも地上のすべる道や寒さを避けて地下歩道で冬の出歩きが促進される、という説もうなずける。しかし、北1条通りには官庁や大企業のビルが並んでいるところがひっかかる。地下歩道はこれらのビルの通勤者にわずかな距離の便利さを提供しているだけではなかろうか、とさえ思えて来る。
税金が注ぎ込まれたこの空間をもっと有効に利用する方法はないものだろうか。この豪華にデザインされた空間は画廊の意図も込められているようだ。壁にいろいろパネルや装飾がある。それなら一般に画廊として開放して料金を徴収することも考えられる。でも、この歩道画廊を利用する人が次々と現れ、さらに鑑賞する人が集まるだろうかという疑念が湧いてくるのも確かである。
2006年03月29日
「ビルの歩道の石川啄木像」
北大の正門を出て昔の電車通を南に進み、JR札幌駅の手前、住所では北7条西4丁目の角のビルの歩道とつながった部分に、写真の石川啄木の胸像が目立たなく置かれている。これは狭い空間であり、ビルを出入りする人が結構いて、場所だけなら秘境ではない。しかし、この歌人に興味のある人にとっては、意外にもこんなところに啄木のゆかりの場所があるかと、秘境感を感じる空間と言ってよい。
ここに啄木の胸像があるのは、明治40年(1907年)21歳の啄木が札幌にやって来て、滞在した下宿がこの場所にあったことによる。啄木は札幌の印象を勤務先の「北門新報」に寄稿していて、それは「札幌は寔(まこと)に美しき都なり。」で始まっている。「秋風記」と題されたこの寄稿文は胸像の下部にはめ込まれている。啄木の札幌滞在は2週間ばかりで、その後小樽、釧路と北海道放浪が続くことになる。
啄木の胸像があるあたりは、JR札幌駅の西口の賑わいが及んで来ている。もし啄木が現在この近辺の様子を読むとしたら、「秋風記」に書かれているように「詩人の住むべき都会なり」とは表現しないだろう。しかして、今の札幌については何とコメントするだろうか。
大通公園にある啄木坐像にもこの「秋風記」が、啄木の札幌を詠んだ歌「しんとして 幅廣き街の 秋の夜の 玉蜀黍の 焼けるにほひよ」と一緒に彫りこまれている。こちらの啄木像は、大通りの人通の多いところにあって、秘境感は微塵も無い。
2006年03月28日
「発寒神社境内環状石垣之跡」
発寒神社はJR函館本線沿いでJR発寒中央駅近くの発寒小学校と道路を挟んだ向かい側にある。この神社は札幌では由緒ある神社の一つではあるけれど、この場所に境内を構えていては秘境とはいい難い。しかし、この神社の境内には史蹟が集まっていて、そこに焦点を当てると、これらの史蹟が一般には気に留めてもらえないという意味で秘境の範疇に入るだろう、という理由付けで訪ねてみた。
前記発寒小学校付近で石器や土器とともに環状石垣(ストーンサークル)が見つかっていて、表題の史蹟はその跡を伝えるものである。この環状石の後代の民族の墓も一緒になっていると言われている。環状石垣がどんな様子で見つかったのか写真も見ていないので説明はできない。この史蹟の碑は写真のように発寒神社の本殿の脇に建てられている。碑の付近に石垣の跡があったとしてもこの季節、雪の下で見ることはできない。
この碑の傍に、写真に示すように「発寒屯田兵移住百年記念」と「発寒移住記念碑」が建っている。似たような碑銘であるけれど、前者は明治9年(1876年)に32戸の屯田兵がこの地に入植したのを100年後に記念して建てたものである。後者は安政4年(1857年)に幕府旗本20人が発寒開拓の目的で移住したのを記念した碑である。
開拓の歴史がそのまま札幌の歴史に重なっていて、札幌には北海道開拓に関する碑が多い。これらの碑は子孫やゆかりのある人達が建立している。碑の示す歳月が100年、多くても150年とかなので、札幌の歴史が本州のそれに比べて格段に浅いのを改めて気づくことになる。
2006年03月27日
札幌秘境100選編集に向けて
今までは秘境の候補を挙げてもらい、断片的な情報をいただいて、それが秘境に適するかどうか編集長の方で検討する、といったところで進行してきました。秘境の候補もかなり出揃って来て(下記候補一覧をご覧ください)、これからは単に候補と断片的な情報ではなく、本にした時の下書き原稿で投稿してもらった方がありがたいです。本の体裁はまだ最終的なものではありませんが、B5かA5の大きさで、見開き2ページに各項目を収めるとして、100秘境で200ページの本になります。1秘境につき見開き2ページの配分ですと、文字数で800字前後、写真が2枚程度となります。秘境のブログにあるものが大体これに合っています。
この体裁にして原稿と写真を用意していただいたからといって本に印刷する原稿という訳ではありません。最初から本の原稿を頭に置いてレポートしていただくと、後の編集等の仕事がやり易いだろうということです。秘境候補を挙げる点でご協力いただくのなら、今まで通り候補と簡単な記述で投稿されても構いません。ただ、編集長に、なるほど大都会札幌の秘境だと思うようにしていただくと、秘境選考の段階で役立ちます。同じ項目は先に候補を投稿している方にレポートしてもらい、二重の仕事は避けたいと思います。
今回の企画は人の行かないところとか、そこにこんなものがあるとか、いった単なるガイドブックではありません。大都会に住んでいて、意外なところに秘境と言ってもよい空間や景観、人工物がある、といった視点からレポーターの実地検分でのコメント(感想)と、秘境についての歴史や背景を述べてもらうものです。読み物ですから(文字数も限られていますので)資料探査というよりは、要点を絞った記述や紹介でよいと思います。
なお、秘境に採用された場合、本にした時には各項目一つにつき10冊の本を買い上げていただくことになります(基本的には自費出版なので)。よろしくお願いします。・・・札幌秘境100選・編集長
現在まで秘境候補に挙がっている項目、レポートの出ている項目一覧
(1)建物・屋内
(1-1)市庁舎最上階の茶室
(1-2)札幌市エレクトロニクスセンター内大田(テジョン)館
(1-3)女神テーミスの顔面レリーフと札幌資料館
(1-4)ポリテクセンター内N30遺跡展示
(1-5)手稲記念館
(1-6)清華亭
(1-7)樺太関係資料館
(1-8)道立文書館別館
(1-9)雪祭り資料館
(1-10)弥永北海道博物館
(1-11)エルプラザ
(1-12)古河記念講堂
(1-13)ちえりあ最上階
(1-14)韓国・大田市テクノマート札幌展示館
(1-15)サッポロピリカコタン
(2)公園
(2-1)宮丘公園
(2-2)モエレ沼公園
(2-3)百年記念塔
(2-4)開拓の村
(2-5)芸術の森
(2-6)精進川河畔公園
(2-7)あいの里公園(トンネウス沼)
(2-8)永山記念公園と永山邸
(2-9)春先の前田森林公園
(2-10)滝野すずらん丘陵公園
(3)山
(3-1)北広山
(3-2)札幌台
(3-3)八剣山頂上
(3-4)三角山
(3-5)五天山
(3-6)藻岩山
(3-7)手稲山
(4)川・湧き水・池
(4-1)冬の平和の滝
(4-2)白石神社の湧き水
(4-3)豊平川の水源
(4-4)篠路福移湿地
(4-5)瑞穂の池付近
(4-6)定山渓ダム
(4-7)西岡水源地
(4-8)星置の滝
(4-9)ひふみみはなめ
(4-10)精進川の滝
(4-11)おいらん淵
(4-12)海の無い町「札幌」の漁場
(5)景観
(5-1)冬の北大第一農場
(5-2)冬の札幌農学校第二農場
(5-3)北大構内原始林
(5-4)軍艦岬
(5-5)ハイテクヒル真栄
(5-6)札幌アートヴィレッジ
(5-7)排雪の山
(5-8)定山渓の幻の三連トンネル
(5-9)札幌競馬場
(5-10)札幌ドーム付近
(5-11)石山緑地
(5-12)古代エジプト札幌営業所
(6)碑・神社仏閣・教会
(6-1)札幌御嶽神社
(6-2)水田発祥の史
(6-3)小麦研究記念碑
(6-4)伏見稲荷神社
(6-5)円山の山頂の「山神」巨大な石碑
(6-6)藻岩山の平和記念塔
(6-7)日本基督教団札幌協会礼拝堂
(6-8)札幌平岸林檎園記念歌碑
(6-9)発寒環状石垣之跡
(6-10)ビルの歩道の石川啄木像
(6-11)札幌飛行場正門跡
(6-12)陶管の墓
(6-13)聖ベネディクト女子修道院
(6-14)大乗院
(6-15)楡影寮碑
(6-16)北海道神宮頓宮
(7)動植物
(7-1)自生する土アケビ
(7-2)西岡森林研究所構内えんれい草の群生地
(7-3)茨戸川とんぼの学校(札幌河川事務所)
(7-4)小金湯の桂不動
(7-5)円山動物園内のルピナス群生地
(7-6)相馬神社のご神木
(7-7)2004年秋の風台風の残痕
(7-8)ウッドサークル
(7-9)水芭蕉の群生する星置緑地
(7-10)ハーブの小径
(8)消えて行くもの・歴史
(8-1)豊羽鉱山(跡)
(8-2)無意根山荘(跡)
(8-3)旧小別沢トンネル
(8-4)たまねぎ倉庫群(たまねぎ記念館)
(8-5)恵迪寮跡(開拓の村)
(8-6)旧拓銀本店
(8-7)サクシュコトニ川遺跡(北大構内)
(8-8)eシルクロード・カフェ
(8-9)旧北部軍司令部防空指揮所
(8-10)豊平峡導水路と豊橋
(9)科学・技術
(9-1)衛星通信地球局
(9-2)NTT洞道
(9-3)気象関連施設
(9-4)西岡天文台
(9-5)北海道放送(HBC)社屋屋上
(9-6)北海道 民放第一声の地
(9-7)石狩湿原のビオトープ作り
(9-8)都心北口融雪槽
(9-9)BizCafe
(9-10)地図と鉱石の山の手博物館
(9-11)NHK月寒放送所、中島放送会館跡
(9-12)南極犬タロの剥製
(10)暮らし
(10-1)森の湯
(10-2)早朝のすすきの
(10-3)深夜の狸小路
(10-4)盤渓のワイナリー
(10-5)スキー競技用板の製作所
(10-6)JR札幌駅北口地下歩道
(10-7)北一条地下駐車場歩道
(10-8)パンダの棲む街
(10-9)農試公園ツインキャップ
(10-10)盤渓小学校
(10-11)地下鉄東車両基地
(10-12)銅像のある商店街「白石本郷通商店街」
2006年03月26日
「相馬神社のご神木」
相馬神社は天神山緑地の一番高いところにある。この神社には大木のご神木があるとインターネットで知ったので、枯れ枝ばかりの季節で見栄えはよくない時期にもかかわらず、写真を撮りにゆくことにする。地下鉄南平岸駅で降りてしばらく歩き、平岸通に面した三吉神社を通ってさらに雪道を登り、相馬神社の境内に入る。大きさとしては中規模の神社である。冬の季節の神社はどこも押しなべて秘境の雰囲気を漂わせている。
この神社は福島県の相馬郡地方の藩主の相馬家の氏神を祀ってあり、相馬太田神社、相馬小高神社、相馬中村神社のうち太田神社の分霊がここに祀られていると境内の説明にある。祭神は「天之御中主大神」と書かれている。本殿の両脇に控えている阿型、吽型の狛犬がなかなか見ごたえがあるのでこれらも写真に収める。
神社の鳥居の近くに写真のご神木がある。近くの説明には「シバグリ」で推定樹齢300年以上、樹直径121cm、樹高10mとある。札幌市の保護樹にも指定されている。確かに大きな木でご神木の風格がある。ただ、今回の写真撮影の経験で、巨木を写真に撮るのは難しいと知った。全体を写真の枠内に収めようとすると、幹の太さが表現できない。幹の太さを強調した写真を撮ると、枝の部分が枠からはみ出してしまう。
秘境ということであえて人の訪れないこの時期に来て見ているけれど、この巨木が芽吹く頃は見事であろうと思われる。写真にも屋根が写っている土俵が境内にあるので、お祭りには素人相撲も行われるのであろう。その時はこの境内を秘境と呼ぶことはできない賑やかさに包まれるのだろう。
2006年03月25日
「春先の前田森林公園」
手稲前田に広がるこの44ヘクタールの広大な公園は、直線を引いたようにまっすぐに伸びる人工の川、新川沿いにある。この公園は、緑の季節に訪れるのが良いところであり、冬に戸外のスポーツを楽しむところである。しかし、冬から春に変わる時期、まだ雪が解けずに残っている頃はこの公園の閉園時期とも重なり、訪れる人もまばらである。それはこの公園の秘境度が増す季節でもある。
4月中旬開園との看板もものかわ、公園内に入ってみる。3月中旬過ぎの園内の雪はざくざくしていて雪の上を歩くと埋まりそうになる。5800株も植えられているハマナスは雪の下で、雪原で目に付く植物は高木だけである。白樺の林があり、これらの木々は雪原の白を木肌に取り込んだように見える。白樺は雪の景観に似合う樹木なのだと認識を新たにする。
緑の季節のこの公園の見所は長さ600m、幅15mのカナール(運河)である。しかし、写真に示すように、この時期カナールも雪に覆われていて、カナールを取り囲む両側のポプラの並木がカナールの位置を教えてくれるだけである。カナールの向こう端には展望ラウンジの建物が見える。カナールの反対側の端には石壁があって、シーズン中は噴水が上がる壁泉となる。
オフシーズンにこの公園に来てみると確かにここは秘境である。この秘境が、春になり地肌が現れ、それが薄い緑で覆われ、その緑は枝にも這い上がり、やがて公園全体が濃い緑に変わって行く。季節によって秘境が秘境でなくなる変化の様を追うのも、秘境探検の面白さである。
2006年03月24日
「札幌平岸林檎園記念歌碑」
雪の天神山緑地が秘境の景観を呈しているかどうか探索しに出かけた。地下鉄南平岸駅から白石藻岩通を折れて、平岸通を南に歩くと、この通りに面して三吉神社がある。この神社は菅原道真を祭っていて、札幌では由緒ある神社である。このあたりから天神山緑地が広がる。雪の季節にくると、緑地は当然ながら雪原になっている。標高85mでも天神山と呼ばれるように、小高くなっているこの地の雪原からは、豊平区の町並みを眺めることができる。
天神山緑地の雪道を歩いていると「石川啄木歌碑」という案内標識が目に付いた。しかし、この歌碑がなかなか見つからない。見つからないのも当然で、三吉神社の裏手に入り込まないと雪をかぶった歌碑に行き当たらない。歌碑の傍に雪で埋もれた碑があって、雪をのけてみると表記のリンゴ園の記念碑の文字が刻まれている。リンゴ園を題材にして啄木が詠んだ歌を歌碑として残すことで、往年の札幌のリンゴ園の跡を伝えている。
かって札幌市内のあちらこちらにリンゴ園があった。北大構内にもリンゴ園があった。平岸にあったものはこれらのリンゴ園の代表格であったはずである。都市化が進み、これらのリンゴ園も無くなって、この記念碑が昔のリンゴ園の存在を細々と伝えている。
この歌碑にある啄木の歌は、啄木が函館・代用教員時代に知り合った橘智恵子について詠んだもので、智恵子の実家は当時札幌郊外で果樹園を経営していた。啄木とリンゴ園との直接の関係はないけれど、歌は札幌が大都会に変貌する以前の田園的雰囲気を伝えている。歌碑には写真にあるようにつぎのように刻まれている。
「石狩の 都の外の 君が家 林檎の花の 散りてやあらむ 啄木」
2006年03月23日
「NTT洞道」
大都会の地下にはライフ・ラインが走る種々のトンネルがある。通信ケーブのためのトンネル、洞道もその一つである。NTTインフラネットの北海道支店に頼み込んでこの洞道見学となった。大都会の地下にこんな空間があるのかという意外性で、洞道は秘境に挙げてもよいと思われる。なお、一般市民でも申し込むと見学させてもらえるので、近づくことのできない秘境という訳ではない。
用意されたヘルメットに手袋のいでたちで階段を下りて洞道の入り口に入る。見学者のために写真の説明のパネルがあって、洞道の概要の説明を受ける。パネルには、札幌市内38Kmを結ぶ「とう道」ルート、と書かれていて、もし端から端まで歩くと1日がかりとなる。到底そんな距離は歩けないので、洞道のいり口からわずかな距離を歩いてこの地下空間の雰囲気を体験する。
写真に示すように、洞道は通信ケーブルが架けられた状態でどこまでも続いている。著者が学生の頃見学させてもらった時には、これらのケーブルは全部銅線を束ねたもので、太いケーブルが幾本もあったはずである。現在は、多くは光ケーブルに変わって来て、ケーブルは銅線のものに比べて格段に細くなって来ている。ただ、光ケーブルといってもそれなりの太さで、それが何本か並列で幾段もの棚の上を走っているのを見ると、ここが情報化社会の神経網が収まった空間である実感が湧く。
光ケーブルという広帯域で高速な通信方式を可能にした技術革新は、通信技術そのものを飛躍的に発展させたことを日常生活においてもはっきりと確認できる。一方、洞道を覗くと、ケーブルを通すスペースや銅資源を節約できたという、普段には気がつかない技術革新の別の利点を目で見て確かめることができる。
2006年03月22日
「古河記念講堂」
北大の中央ローンにあるクラーク博士の胸像と道路を隔てて建っている洋式の建物である。名前にあるように、古河財閥が寄付した基金で1909年に建設されている。古川財閥は1877年に足尾銅山の払い下げを受けて財を成していった。しかし、足尾銅山鉱毒事件などで世間の評判を落とし、そのため帝国大学に百万円の寄付を申し出て、そのうちの一部14万円で北大の前身の東北帝国大学農科大学にこの講堂が建設された。
新築当時は農学部の林学講堂として使われ、その後教養部の本部に転用され、現在は文学部の研究室となっている。著者が教養部の学生であった頃はこの建物にはご厄介になっていて、教務に関することでここに来ている。この建物の中に教養部の講義室もあって、講義を受けたような記憶がある。しかし、現在は関係者以外は立ち入り禁止で、一般の人は内には入れない。もっとも、入っても教官室や研究室があるだけで、特に見るものはない。
建物の外側な写真のようなマンサード屋根と、屋根に取り付けられている採光用のドーマがあって、北海道で初めてのフランス・ルネッサンス様式建築である。国の登録有形文化財となっており、そのプレートが玄関口に掲示されている。文化庁がつけた番号が01-0003となっているから、随分若い番号である。多分01-0001は札幌にあるに違いないので、そのうち調べて1号目の現物を見にゆこうと思っている。
秘境探検の手前もあって、建物内に入ってみる。階段は写真にあるような年季の入ったものである。中央の半円形窓がしゃれている。しかし、この階段部分を除けば、これといって取り立てて書くほどのものは内部には見られない。確かに、誰も居ないこの建物の内は秘境と言えばいえそうである。
2006年03月21日
「エルプラザ」
通称エルプラザと呼ばれている、JR札幌駅北口近く(北8条西3丁目)にあるこの施設の正式名は「札幌市男女共同参画センター」である。地下1階、地上13階のビルの中にあり、2003年の9月に開館している。「札幌市男女共同参画推進条例第16条第2項に基づき、男女共同参画を総合的かつ計画的に推進し、男女共同参画社会の実現に寄与するための総合的な拠点施設として設置された」と説明されている。
知らない条例は沢山あるとは思うけれど、条例の名前を聞くと大抵のものはその目的や関係する事柄は察しがつく。しかし、男女共同参画推進条例というのはちょっと頭をひねる。こういう疑問に対する解答を得るには、インターネットで調べて見るのが近道で、検索すると地方自治体にはどこでもこの条例が定められている。著者は男女共同参画の法の精神には疎かった。ただ、ここは秘境探検なので、条例についての説明の寄り道はしないで建物に話を戻す。
交通の便もよく、建物の内部は立派なものなのだが、建物内の人口密度が希薄である。1F~4Fが公共施設で、市民が利用できる空間となっていて、自由に出入りできる。2Fには環境プラザのコーナーがあって、写真のような環境に関する展示があるけれど、日中こんなところをふらふらしているのは、たまたま訪れた著者ぐらいなものである。きっと環境に関するイベント開催時には人で混み合うのかもしれないけれど、普段はこんな程度か。
エレベータに乗って3Fで降りてみると、写真のように人の居ない広いスペースがある。ホールの前のスペースで、隅に喫茶コーナーがある。店は開いているのだが客が居らず、秘境候補に適う空間となっている。でも秘境の問題はさておいて、この喫茶コーナーはこれで採算がとれるのかと他人事ながら心配でもあった。
2006年03月20日
「地図と鉱石の山の手博物館」
山の手と西野は発寒川を境にして分かれる。道道北1条宮の沢線が発寒川を横切る山の手側にこの博物館がある。車で通ると、ガラス張りの4階建てのビルの側面に大きく博物館名が出ていて、一度は覗いてみたいと思っていた私設博物館である。このビルには札幌の大手の建設会社が入っていて、バブルがはじけて経営が行き詰まったこの会社がビルを手放した経緯があり、最初から博物館の造りになってはいない。そんな予備知識があったので、人の行かない秘境っぽさを感じていた。
今回初めて訪れ玄関を入ると、少し低くなった1階のフロアー全体が見渡せ、鉱石の標本が並んでいる。この博物館は建設コンサルタント会社の一部門として運営されているとのことで、会社の社員が学芸員も務めている。そうでもしないと私設博物館の経営は成り立たないだろう。鉱物好きなら、この博物館の秘境度は人に邪魔されずじっくり見ることができる満足度につながるだろう。
著者は鉱石についてはずぶの素人で、この博物館の自慢のものを聞いてみる。答えは写真にある北海道の鉱石が充実していることだそうである。北海道の地名がついた鉱物もあり、「手稲石」と命名されていて、組成で言うと亜テルル酸塩鉱物だそうである。新種の鉱物はどのように認定されるのか、北海道の豊羽鉱山が閉山になれば残る道内の鉱山は金鉱石を採掘している「光竜鉱山」だけになる、鉱山が無くなると展示する鉱石の入手が難しくなる、等々の説明をしてもらった。
地階には北海道の地図の展示があって、伊能忠敬の地図(のコピー?)や古地図が展示されている。色眼鏡で立体視を行って立体感を出す床に描かれた北海道地図の上を歩いたついでに、著者が地図データから利尻島や北海道が立体的に見えるホログラムを制作した研究例をちょっと話したけれど、鉱石の説明には詳しかった説明員にはあまり通じなかったようだ。専門が異なると、話はお互い秘境に入ってしまう。
2006年03月19日
「伏見稲荷神社」
この神社の由来は札幌では古い。1884年(明治17年)に京都伏見にある官幣大社稲荷神社に札幌への分祀を願い出て、札幌区南五条東一丁目に分神が祀られることになった。その後、神社は琴似村十二軒に移され、さらに現在の藻岩山麓に移されたのは1907年のことで、現在地で100年の歴史を刻んでいる。神社があるあたり一帯が伏見と呼ばれるのは、京都の伏見稲荷神社の名前から来ている。
藻岩山麓通は名前の通り藻岩の山裾を通り円山と神社山の間を抜けて宮の森に通じる。この通の伏見2丁目にこの神社が建っていて、藻岩山を背に、南側に広がる札幌市に向かっている。近くには藻岩浄水場や水道記念館がある。神社の入り口は赤い鳥居が目に付くのですぐ分かる。
しかし、長らく札幌に住んでいたけれど、赤い鳥居がこんなに重なっている参詣道のある神社があったとは知らなかった。鳥居の下をくぐりながら鳥居の数を数えたら二十六あった。週末の午前中のせいもあるのだろうけれど、参拝者もほとんど見当たらず、残雪に鳥居の赤が一際映えて、この季節、この時間帯でここは秘境である。
本殿は藻岩山を背負う格好で、周囲には冬枯れの景色が広がり、秘境探検の証拠写真を撮る分には都合が良い。しかし、春になり北国の緑が戻って来て、この神社が緑の木々に囲まれる頃は行楽の地として良いところだろうと想像できる。毎月一日(市の日)にはこの境内で市が立つそうで、その時は秘境から賑わいの場所に変わるのだろう。
2006年03月18日
「旧北部司令部防空指揮所」
「「北の大本営」買収は困難」との新聞の見出しが目に留まった。札幌の市民団体「札幌郷土を掘る会」が札幌市に対して、買収・保存を要請していたこの施設について、多額の支出が必要なため、買収は困難だとする回答が札幌市からあったという内容である。政府は土地を含めて売却方針で、そうなれば施設は取り壊される懸念が大きいらしい。
消えて行く予定の建物や施設は秘境として取り上げる方針なので、早速写真を撮りに行くことにする。場所は豊平区月寒東二で、月寒中学校と道路を挟んだ位置にある。地図で見ると陸上自衛隊札幌駐屯地と地続きで、月寒送信所と記されている。いまでも防衛施設の一部らしい。
住宅街に隣接して、この朽ち果てた二階建ての鉄筋コンクリートの施設を近くで見ると、冬景色も加わり大都会の秘境の趣である。一般市民が敷地何内に立ち入らないように鉄条網で囲まれているので、敷地内にも建物内にも入れない。この施設は太平洋戦争時に札幌への空襲に備えて、戦争のさなかの1943年に完成している。北部司令部の現存する唯一の施設である事もあって、前述のような保存運動が続けられている。
戦争中は北部方面の各部隊との情報のやり取りを有線、無線で行っており、擬装のため壁は黒く塗られ、建物の屋根には土が盛られて草が生い茂っていたそうである。戦後は防衛庁の送信所となって現在に至っていて、確かに敷地内にアンテナが立っているのが認められる。戦争が終わってもう六十年は経つ。戦争の記憶も建物もこの長い年月で風化しているのを、この施設で確認できる。
「札幌競馬場」
競馬には縁がなかった。北大のキャンパスに接したようにしたようにあるこの競馬場に、誰かが馬券を買いに行くのに金を集めたのに加わったような、加わらなかったような、あやふやな学生時代の記憶がある。むしろ北大に勤めるようになって、競馬場の横を自転車で大学に行く週末に、馬券を買う人の車で道路が混雑していた記憶の方がはっきりしている。その後、街の中にも場外馬券場が出来て、この混雑もなくなった。
競馬場を地図で確かめると、その敷地はかなりの大きさを占めている。北大の第一農場ぐらいありそうである。敷地総面積は52万5千平方メートル(16万坪)で、この大きな広場が塀の中にある。冬の間はこの広場は雪に閉ざされているだろうから、都心にある広大な秘境といえる。競馬場の持ち主の日本中央競馬会(JRA)に頼み込んで、入場者のいない競馬場を覗かせてもらった。
写真の正面の大きな建物の入り口からスタンドに入る。スタンドから眺めると、砂場のダートコースの部分の雪が融けていて、ここを馬が疾走していく状況を想像する。ダートコースの外側の芝生のコースはすっかり雪に覆われていて、どこがコースかはほとんど分からない。写真に示すように、スタンドに向かって中央に巨大な映像表示板と着順表示板が見える。写真の背景の左側遠くには北大の建物、さらに中央に一段と高いJRタワー、その右側には市内の高層建築が写っている。
JRAの出している札幌競馬場のパンフレットに、1936年(昭和11年)撮影の三角山から見た競馬場全景の写真が載っている。この写真では競馬場の周りは田畑ばかりで、人家もまばらである。それが今やビル、道路、線路がどんどん出来て、それに囲まれた格好で馬の走るための広場だけが昔のままで残っている。冬は人が訪れないという意味での秘境が、昔ながらに綿々と続いて来ている。
2006年03月17日
「ビズカフェ(BizCafe)」
2000年の6月にJR札幌駅北口近くにITに関わる企業家、研究者、行政関係者、学生等の雑多な人々のたまり場としてのビズカフェが開店した。二階建のプレハブで、一階部分にはラーメン屋があった。ここに集まる連中が新しい試みを次々と繰り出して、マスコミにも取り上げられ、札幌のみならず全国のIT業界にも知られる存在になった。
このビズカフェの理念は「New Business from New Styles」で、この標語を筆書きにした看板が架かっていた。新しいやり方で新しいビジネスを追求する実戦の場としてビズカフェを機能させようとしていた。それは評価できるものにつながっていった。この初代のビズカフェは2年間の時限付のもので、経済産業大臣表彰を受賞するまでになって閉店した。
ビズカフェの第二ステージは2003年の10月に初代のビズカフェのあったところに出来た「伊藤組110ビル」の2階に入居した。写真のビルの2階の少しはみ出した部分が二代目ビズカフェである。前述の看板そのものは二代目ビズカフェにも引き継がれている。しかし、二代目になってからはビズカフェの話がマスコミにでることは少なくなって、ビズカフェを背負う人達の顔も見えなくなって来ている。初代の賑わいを知る著者には秘境化が進行している感じがする。
最初は屋台で繁盛していた店を、立派な店舗のレストランにしたら客が遠のいた、という話はよく聞く。ビズカフェもこの例と重なるところがあるのではなかろうか。秘境探検で思い出したように二代目ビズカフェを訪れて、店内の本棚のところの写真を撮って来た。開店時にこの本棚に本を寄贈したけれど、その後寄贈本も増えていないのが一目瞭然である。この空いている本棚も秘境感を増幅させている。
2006年03月16日
「都心北融雪槽」
札幌の市街地の雪は二つの方法で処理される。一つは集めて雪山を作り、春になって融けるのを待つ方法である。もう一つは強制的に融かす方法である。この2番目を採用した融雪槽がJR札幌駅の北口のバスターミナル横の地下にあるとは知らなかった。知らないのも当然で、都心部の道路からダンプトラックで運ばれた雪がこの融雪槽に投げ込まれる作業は深夜に行われていて、一般の人が目にすることはまずないからである。
昼間、この融雪槽の蓋の部分を見ると写真のようなものである。注意して見ると、確かに投雪口誘導表示盤の文字が見え、監視カメラが下の地面に向けられている。つまり、雪を満載したトラックが来ると、監視カメラの向いている地面の蓋が開いて、ここに雪が投げ込まれるようになっている。当然その下は巨大な融雪槽となっている。
この地下にある融雪槽の様子を市の関係部局に頼み込んで覗かせてもらった。融雪槽は幅23m、長さ33m、高さ6mの4千立方メートルの容量がある。1日にダンプトラック286台分の雪を投げ込んで、40度の温水で1日で溶かしてしまう能力がある。温水の方は暖房用に札幌エネルギー供給公社が供給している温水を、熱交換器を介して利用する。通常は融雪槽として用いており、最後に投入された雪については、それが融けるときに周りから奪う熱を逆に冷房に利用する。
写真はこの冷房に使う状況で雪が融けて来ている融雪槽内の様子で、まだ融けていない部分の雪が柱状になっているのが分かる。融けた水の方には泥やごみを含んでいて、きれいな水ではない。このきたない水を冷房に使うため、熱交換器を二段にして、泥水がきれいな温水と混じらないようにしているところを、巨大なパイプが入り組んだ地下の機械室で確かめた。大都会の地下には生活を快適にするための舞台装置がひっそりと息づいて活動しているのを目の当たりにして、都心部の地下の多様性を知ることになる。
「永山記念公園と永山邸」
札幌市内の公園はどこも雪で覆われるため、訪れる人もなく、冬期間は秘境に変わると言っても過言ではない。特に雪の多い年はその秘境度が増す。北2条東6丁目の半区画を占める広さで永山記念公園がある。街の中心部に近いこの公園が、冬場にはどんな様子か出向いてみる。
この公園は木々が多くて、夏には市民の憩いの場所になっているだろうことが推察できる。しかし、雪の多かった今年(2006年)は3月も半ばにさしかかっているのに、公園内のベンチは雪に埋まっている。公園内の雪が解けない限りこの公園内に足を踏み入れる何の理由もみつからない。精々著者のような自称秘境探検隊員が写真を撮りに雪の上を歩くぐらいだろう。
この公園の北側には北海道有形文化財に指定されている「旧永山武四郎邸」がある。永山は北海道開拓長官となった黒田清隆と同郷人で、北海道における屯田兵の育ての親である。永山邸は明治10年(1877年)に建てられた私邸である。写真の2階建ての部分は1937年頃に三菱鉱業セメント会社が建設したものである。永山邸は生憎修理中で中には入ることができなかった。
この公園の西側には、サッポロビールの工場跡地に建った集合商店施設のサッポロファクトリーがあって、ガラス張りのこの建物が写真の背景に写っている。この建物の東側入り口は裏側の位置づけで、入り口脇に「札幌神社」の石碑が建ち、祠が祭ってある。サッポロファクトリーの守護神が祭られていると説明にあった。サッポロファクトリーも午前中に入ってみると、開店早々で客もほとんど居なくて、ガラス張りのドームの下の巨大空間は秘境と表現してもよいかも知れない。
2006年03月15日
「弥永北海道博物館」
北大の近く(北19条西4丁目)にこんな私設の博物館があったとは知らなかった。この博物館前の一台分の専用駐車場に車を止めて開館を待つ。著者が居たせいか、案内の時間より少し早めに開館の表示が出る。元々は住宅だったものを博物館にしたようで、入り口は普通の住宅と変わりない。ただ、玄関先にアンモナイトの化石が置かれ、玄関内に鉱石の標本があり、吹き抜け部分にアイヌの民族衣装が飾ってあるので、玄関を入ってすぐに博物館の雰囲気となる。
三階建ての建物全体が博物館となっていて、それぞれの階でテーマごとの展示がある。一階は鉱物・化石の展示室になっていて、色々なアンモナイトの化石や恐竜時代に北海道に生息した陸亀の化石などが展示されている。マンモスの牙なども目につく。各種の鉱物のサンプルが展示されていて、貨幣の展示へのつながりで、金鉱石なども陳列されている。
二階にこの博物館のメインテーマである貨幣の展示室があり、日本の大判を始めヨーロッパの各種コインの蒐集を見ることができる。日本の各種の紙幣が壁いっぱいに展示されている。世界の変わった貨幣もあり、茶を固めた貨幣は初めて知った。北海道に関する資料として写真の道内銀行の預金通帳といったものまであった。この階にはアイヌの民族資料や埋蔵文化財のテーマもあって、関係展示物が並べられている。
三階では砂金掘りに関する資料や砂金のサンプルを見ることができる。金を使った工芸品も飾ってある。ここには座るところがあって、展示物に囲まれながら一休みである。しかし、入館者は依然著者一人で、このこじんまりした博物館は住宅街にある秘境空間を作り出している。このような秘境があるところが、大都会札幌の魅力でもある。
2006年03月14日
「小麦研究記念碑」
著者が学生であった頃北大の暖房は石炭であった。農学部と理学部の裏側に引き込み線があって、夏から秋にかけてこの引き込み線で工学部横の貯炭場に石炭が運び込まれるのが冬を迎える北大構内の風物詩であった。配給された石炭が足りなくなると、寮生の一員として、この引き込み線沿いに落ちている石炭をバケツに拾い集めた記憶がある。
この引き込み線は、今はアスファルトの道路になっていて、よほどの年配者でなければ、かってここを石炭を満載して貨車が通過していったとは知らない。この道路に面して理学部の建物の横に写真の小麦研究の記念碑がある。記念碑の背景の遠くにJRタワーとJR札幌駅北口に建築が進行している高層ビルが写っている。
札幌農学校時代から北大は農学部が看板で、麦類の研究が行われ、坂村徹博士が小麦の正しい染色体数を明らかにしている。記念碑はこの染色体組の単位を図式化している。この研究を引き継いで、木原均博士が小麦の細胞遺伝学的研究でこの分野の新しい領域を切り開いた。これらの研究業績を讃える記念碑として、北大創基100年を機に1976年に建立されている。
この碑の近くにはポプラ並木があり、観光客はこちらの方に流れるけれど、この記念碑を見に来る客はまずいない。かくいう著者さえ北大に勤務していた時に一度もこの碑を見に来たことはない。北大には記念碑が沢山あるけれど、この記念碑は北大の秘境の記念碑と位置づけてもよいだろう。
2006年03月13日
「eシルクロード・カフェ」
アジアの情報産業先進都市を結んで、ITを核にして現代の交易路を開拓しようという理念の下で、2001年に「eシルクロード」が開始された。このプロジェクトは、サッポロバレーと呼ばれている札幌の情報産業集積地の海外戦略の位置づけで、この年にアジア各国から企業家、研究者、行政担当者が札幌に集まってセミナーやコンベンションが開かれている。
同じ年には、JR札幌駅の南口の「そごうデパート」の跡に国内最大規模のパソコン販売店「ビックカメラ・ビックピーカン店」が開店し、同店が札幌に進出したご挨拶代わりに、eシルクロードの宣伝を行ってもらえることになった。写真は同店の地階から一階に上がる階段部分の壁面にあるeシルクロードの紹介である。eシルクロードがそもそも何であるかは内装された説明に書かれているけれど、来客はこの説明には目もくれないで通過して行ってしまうようである。
この内装と組み合わせて、同店の3階には写真の「eシルクロード・カフェ」というアジアン・カフェが開店した。カフェ内は東南アジア風で、混雑する店内での休息場所を提供していた。このカフェはその後札幌市の肝いりのビジネスセンターとしてリニューアルされたが、現在は同店の売り場に変わっている。eシルクロード・カフェの写真が手元にあまりなく、写真をもっと残しておくべきだったと思っている。
当初は、アジア各国から札幌を訪れるIT企業家や関係者が、一度はこのカフェを訪れる名所にすることはできないものか、との思いを持ったものである。しかし、それは白昼夢であった。数年前であれば秘境候補に挙げてよかった場所の痕跡は、前述の階段とエスカレータの両脇の壁に残っている装飾だけである。
「雪祭り資料館」
曇り、雪、雨と目まぐるしく天候が変化する3月の半ばの週末の午前中に、自然の中にある大都会札幌のイメージを定着させている「羊ヶ丘」を訪れて見る。観光バスも観光客もほとんど見当たらず、ちらほらといる観光客も雪景色をじっくり眺めている様子でもない。今や北大構内にある胸像の本家より観光客には有名になったクラーク博士の全身像が、けぶるような雪原をバックにして立っている。
この羊ヶ丘にさっぽろ雪祭りに関する資料館があったとは知らなかった。札幌市民でありながら、いや札幌市民だからこそかも知れないけれど、雪祭りも羊ヶ丘にもご無沙汰である。今回はシーズンオフの観光スポットは訪れる客が少ないから、そのようなスポットの展示館には人が居なくて秘境に組み込めると睨んで訪ねてみた。
確かに訪れた時この資料館には人っ子一人居なかった。受付にも人影が見当たらず、ご用の方はプライベートの部屋まで、という案内が目に付く。シーズンに来たことがないので、最盛期の期間にはどのくらいの入館者があるのか見当もつかない。誰もいないのでその分気兼ねなく、2階建ての館内で雪祭りの資料が集められた展示室を見て回る。
これまでの雪祭りの大雪像のレプリカ、写真、ポスター、販売グッズ等々が並んでいる。雪祭りを記録したパネルで、第一回は昭和25年(1950年)に開催され、市内の中学生・高校生が3~5メートルの雪像を作ったことを知る。当時の札幌市の人口は31万人で5万人の見物客が集まったというから最初から人気の祭りだった。
今や雪像作りのプロの自衛隊がその技術の蓄積と機動力を生かして、大雪像を作るのが恒例化して来ていた。観光客も200万人といった数に膨れあがり、アジア諸国からもこの雪祭りのため人が訪れるようになっている。ただ、今年(2007年)の57回目からは、大雪像作りを自衛隊に全面的に頼ることができなくなって、大通会場はそのままでも、自衛隊の駐屯地内の真駒内会場が閉鎖で、代わりに「サッポロさとらんど」に第二会場を移している。今年はさっぽろ雪祭りの質的な転換の年でもあった。
2006年03月12日
「札幌アートヴィレッジ」
札幌市は芸術と情報技術を融合させたハイテク産業の振興を目的にして、「札幌芸術の森」に隣接した「札幌アートヴィレッジ」を造成して3区画を分譲した。芸術の森は真駒内川に沿って広がり、札幌と支笏湖を結ぶ国道453号線沿いにある。常盤(ときわ)と呼ばれるところの山間部に各種の工房や展示場、野外ステージ、野外美術館などが点在している。
著者は、以前札幌の情報産業振興に関わっていて、純粋に芸術だけではなく、札幌で急成長しているゲーム関連企業のアニメ制作を行う場所を、芸術の森の付近に造成することなどを札幌市の関係者に提案した経緯がある。手塚治虫らの漫画家の梁山泊になった「トキワ荘」と同じ発音から、コンピュータで漫画を作るアニメ作家を集めた札幌の「常盤荘」を作っては、といった新聞コラムを書いたことなどもある。
そんな世の中の流れのなかで、札幌市は芸術の森の南側に総面積9万平米の中に3.6万平米を分譲地として造成した。緑豊かな場所で情報アート系の研究開発を行う企業誘致に名乗りを上げたのは、札幌を拠点にしてゲームで急成長をとげていたハドソンで、中央研究所をここに1992年に建てている。1993年にはファンハウスの録音スタジオとして札幌スタジオが完成している。
しかし、ハドソンは開発資金の調達等の問題を抱え、ゲームの大手コナミの傘下に入り中央研究所も整理されたはずである。ファンハウスの方もその後札幌での企業活動は中止しているのではなかろうか。3月の雪解け前にこのアートヴィレッジの様子を見に行ってみた。枯れ木の林を背後に社屋は空き家になっていて、雪に埋まっている。玄関まで行って屋内を覗いてみても企業活動の痕跡は見あたらない。この状況から、企業が残した札幌の秘境を確認しながら、企業の変遷に感慨深いものがあった。
「JR札幌駅北口地下歩道」
大都会札幌の玄関口のJR札幌駅は線路が東西に走る関係で南北に主要出口がある。この出口の南口は商業地区、北口は合同庁舎や北大が控えている関係上官庁・大学地区と大まかな性格付けができる。大都会の駅につながる地下歩道はどの都市でも人で込み合っているのが普通である。しかし、札幌にはこの地下歩道の秘境が存在する。
秘境の地下歩道は北口西通と北口東通の地下を通り地下駐車場の横を抜ける二本と、この二本の歩道を結ぶ二本がある。写真は午後の遅い時間と出勤時間を少し過ぎた時間帯のこれらの歩道の様子で、南口を通り抜ける歩道は大都会の賑わいを見せているのと対照的にちらほらとしか人が通らない。モダンな彫刻や壁面のパネルのある立派で広い地下歩道に通る人がまばらな様子は、これぞ大都会の秘境の観を呈している。
どうしてこんな人通りの無い立派な地下歩道が作られたのかは謎である。地下駐車場に行くだけなら、その目的に合わせた適当な広さのものを作ればこんな秘境空間は生まれて来なかったろう。予算の立て方を間違えたか、利用客の予測を間違えたか、何かが間違っての結果のようである。
歩道の途中には札幌市の姉妹都市、アメリカ・ポートランド市、ドイツ・ミュンヘン市、中国・瀋陽市、ロシア・ノボシェビスク市の入り組んだ立派なコーナーがある。でもだれも立ち止まって見もしない。照明も展示に合わせていて、電気代も馬鹿にならないだろうに。秘境の条件の定義はいろいろあると思われるが、持参の弁当を誰の目も気兼ねしないで食べられるところ、というのもある。著者はこれらの姉妹都市の一つのコーナーで白昼弁当を広げて食べたが、食事中誰の視線を浴びることもなかった。げに、大都会の秘境である。
2006年03月11日
「日本基督教団札幌協会礼拝堂」
この礼拝堂が札幌市の都市景観重要建築物に指定されたと新聞の朝刊に出ている。これは秘境探検の対象になると、新聞記事を見たその日に訪れてみた。創成川沿いの国道五号線の北一条のところの西側に面していて、この幹線道路を通る時に目にする建物である。札幌軟石で出来ているのが外観からも分かり、ビルの谷間に埋もれていても存在感がある。
中世ロマネスク風建築の礼拝堂の外側をカメラに収めてから、ドアを押してみる。玄関の内側には履物棚があって、たくさんのスリッパがきちんと並んでいる。しかし、人の気配が無い。礼拝堂とおぼしきところのドアは開かない。そこで二階に上がってみる。ここにも人は居ない。二階のバルコニーのところからこじんまりとして簡素な写真の礼拝堂を見下ろすことができる。二階の壁にはめ込まれたステンドガラスが美しい。
この礼拝堂は以前は「札幌美以教会堂」と呼ばれていた。ここで「美以」とはメソジストの意味である。メソジストはメソッド(規則正しい生活方法)を重んじることに由来して、18世紀に英国で起こったキリスト教の信仰覚醒運動に端を発している。ピューリタン的性格の宗派で、開拓時代のアメリカで盛んになった。それで礼拝堂も質素なものなのかと推察するのだが、昔の建物なのでそうなったのかも知れない。
著者一人しかいない礼拝堂はそれなりに秘境なのだが、いつも秘境である訳ではなく、信仰の時間には信者が集まってくるのだろう。でも、宗教は信者が大勢集まってもいても秘境っぽい感じがする。メソジストなんていう言葉を聞くとなおさらである。
「道立文書館別館」
文書(もんじょ)館とは公文書、私文書、その他記録等紙メディアで残っているものを保管しその利用を図るところである。各地方自治体はこの文書館を設けていて、北海道立文書館は1985年に設置されている。現在の道立文書館は北海道庁旧本庁舎の内にある。この文書館は展示室もあって、珍しい文書や文献、写真の類を見ることができる。
文書館が手狭になったのか、別館が旧庁舎からすこし離れた北1条西5丁目の南向きの角に設けられている。写真の建物がこの別館で、入り口に架かっている表札を注意して見ないと、これが文書館別館とは気がつかない。この格調のある建物は旧北海道庁立図書館として大正15年(1926年)建てられたものである。レンガとコンクリート造りの地上二階、半地下一階の建物である。階数は数え方によっては四階の建物ともいえる。最初の図書館から道立美術館、三岸好太郎美術館と変遷を重ねて、現在の文書館別館となっている。
中に入って見るといきなり守衛室があって、詰めていた守衛氏から、許可無くしては入館できない旨を告げられる。仕方がないので守衛室傍の階段部分の写真だけを撮らしてもらった。様式は分からないけれど、大正期の格調の高さが階段部分にも表れている。その壁の脇にダンボールが積み重ねられているところが文書館の倉庫の雰囲気で、建物の格調の高さとちぐはぐである。
この建物は観光ガイドブックにも載っていて、道庁旧本庁舎と時計台を結ぶルートの途中にある。この好位置を利用して、建物内の一部でも開放すると、現時点では外側の写真を撮るだけしか出来ないところ、中に入ることが出来れば、観光客には喜ばれるだろう。秘境探検から観光に軸足を移して考えるのである。
2006年03月10日
「北海道放送(HBC)社屋屋上」
大都会のビルの屋上は色々な使われ方がされているようだ。「ようだ」と書くのはその利用法が部外者にはほとんど分からないからである。ただ、ビルの屋上を見上げて、その利用法を推測できるのは、放送や通信に関わる会社に関してである。なぜかというと、アンテナやアンテナを設置するための鉄塔が地上からでも確認できるからである。
放送会社のビルの屋上はどのようになっているのか探検にいくことにする。幹部を知っている関係で、北海道放送(HBC)の屋上の見学を頼み込んだ。元々は、同社の屋上に設置した監視カメラで撮影したライブの映像をインターネットで流しているのをパソコンで見て、監視カメラの設置状況を現場で確かめようという動機からである。
屋上には予想していたようにパラボラアンテナがあって、静止衛星を捉えるように設置されている。直系が7メートルの写真に示す巨大なものである。利用している衛星は宇宙通信株式会社(SCC)のスーパーバードB2と呼ばれているお星さま(衛星をこう表現することがある)である。その他にも小さなパラボラアンテナや、前述の監視カメラも鉄塔の上に確認できる。写真に写っているように、他のビルの鉄塔のアンテナも目の当たりにすることができる。
ビルの屋上から北海道庁の庁舎や旧庁舎前の庭園を俯瞰できる。ビル群とそれを分けるようにまっすぐに延びる通りが目に入る。青空駐車場やそこにびっしりと詰め込まれた車の群れも見える。このような大都会を上から観察できる場所がビル毎にあることには一般の人はほとんど気に留めない。まったくビルの屋上は大都会の秘境といってもよい。ただ、ビル屋上には一般の人が簡単に近づけないため、秘境探検を行うのは難しいことも確かである。
「恵迪寮跡」
著者がこの寮の寮生となったのは1960年なので、もう46年もの歳月が流れている。その間に新寮建設問題などを機に、学生の自治による生活の場か大学管理の厚生施設かで寮生と大学当局が長年にわたってもめ続けた。そして新しい寮が北大キャンパスのはずれに建設されて、昔の木造2階建て4棟からなる寮は取り壊され跡形もなくなってしまった。
冬の一日恵迪寮の跡地に立ってみると、昔寮があったところはグラウンドに変わっていて、それも雪で覆われている殺風景な景色である。年月の経過が景観をこうも変えてしまうのかと感慨深いものがある。かすかな記憶では寮の入り口に大きな松の木があって、その木かも知れないものを見つけた。しかし、本当にそれなのかと問われると自信が無い。
恵迪寮を残そうという運動の成果を「北海道開拓の村」に見ることができる。このテーマパークには写真の恵迪寮の建物が復元されている。玄関部分と二棟の寮、それをつなぐ廊下があり、中に入って見学できる。玄関から入ると明治45年度寮歌「都ぞ弥生」が入館者をセンスして流れてくる。訪れる見学者もなく、BGMの寮歌を聞きながらの復元された部屋や展示を見て歩くと、秘境感が漂う。因みに筆者が住んでいたのは「新寮」の60号室であったと記憶している。
当然ながら、復元された内部は実際のものと比べるときれいで整っている。入寮直後は人が住むところかと疑って、そのうち慣れてしまったあの現実の寮の再現はテーマパーク内では難しいことなのだろう。この寮をはじめ、ここに集められ復元された建物は本物に似せて造ってあっても、本物とはかなり乖離した点がある。これは現在に存在するものと過去の思い出の乖離に対応しているのかも知れない。
2006年03月09日
「冬の五天山」
五天山は西区の琴似発寒川と左股川が両脇に流れる304メートルの低い山である。発寒川には西野の街が広がり、左股川沿いに福井の街が連なる。五天山はかって採石場でもあって、福井側から見ると写真のように階段状の採石の跡が眺められる。この採石後の景観を緑に戻すことも柱にして、五天山の麓に西区では初めての総合公園造成計画が進行している。
この造成計画は1996年に始まっていて、25ヘクタールの公園予定地が確保されて、2008年に完成予定とのことである。予定地がどのようなものであるのか、近くまで行ってみることにする。しかし、写真のように金網が張ってあって、中には入れない。公園予定地は雪に埋もれている様子が見られるだけである。雪が溶けても今のところただの広場だけなのだろう。
福井側から五天山に近づけないので、西野側から登ってみることにする。西陵高校の脇の雪道を五天山の方向に進み、「私有地につき立ち入り禁止」の看板を無視して先に進む。しかし、途中写真の「五天山入口」の石碑からの登山道路は人の歩いた気配もなく、登山道と思しきところが雪で覆われて先に伸びている。長靴履きで、カメラを片手に登山の準備などまったくしないで出向いて来たので、雪を漕いで登るのは敬遠した。
頂上に近づけなかったことを秘境である理由にして、冬には秘境になるこの山には、雪が溶けた頃はどんな様相に変わるのか、また来てみようと思っている。
「清華亭」
北8条通は北大構内の構内の縁に沿っている部分があり、この通に関して構内にある「クラーク会館」の反対側に清華亭が位置している。ちょっと分かりにくいところにひっそりとあって、観光客も最初からここを目的にして道順を調べて行かないと辿り着かないだろう。一般の人がふらりと訪れる場所でもなく、秘境に該当する観光スポットだろう。
「偕楽園」と名づけられた札幌市の最初の公園が明治4年(1871年)に造成され、その公園内に開拓使の貴賓接待所が明治13年(1880年)に建てられた。新築の翌年、明治天皇が札幌農学校を視察された際にここに休息したことから、写真のように天皇が詠んだ和歌の掛け軸が飾ってある。
清華亭は写真に示すように平屋の37坪の小さな建物で、洋風と和風の両方を兼ね備えている。1961年から札幌市の「有形文化財」に指定されている。偕楽園の方はかっては広い敷地があって、清華亭はその一部分を占めていた。現在は清華亭の周りに残る少しの敷地が偕楽園の名残で、その周囲を住宅やビルが囲んでいる。
清華亭の室内には有島武郎、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾、ルイス・ボーマーらの足跡に関するパネルが展示されている。札幌農学校や北大の前身の東北帝国大学農科大学の関係者がこの清華亭の常連客であったことが説明されている。ここで、有島は「生まれ出づる悩み」のような文学作品で世に知られているけれど、北大の絵画サークル「黒百合会」の結成にも大きく貢献した美の人でもあった。
2006年03月08日
「北海道開拓の村」
ここが明治・大正期の北海道の建造物を集めたテーマパークだと知って訪れるので、冬季の開村時間から少し経って入ってみて観光客が居ないとしても、秘境の感じは薄い。しかし、ここをテーマパークと知らないで、周囲の野幌森林公園の雪道をトレッキングしていて紛れ込んで入ってしまった状況を想定すると、ここは大秘境と錯覚するに違いない。
それにしても3月の週日の午前中に秘境探検の大義名分で訪れた時には人が居なかった。秘境探検という点ではこの方が都合がよく、加えて天気も良かったので、写真を撮るのに精を出した。ただ、村内は整備が行き届いて、絵葉書用には適している写真は沢山撮れても、人影も写っていなくて、映画のセットだけを撮ったような面白みに欠ける写真が並んでしまったのも確かである。
北海道は開拓百年を記念して、百年記念塔や開拓記念館を建設するのと並行して、開拓の歴史をテーマにした野外博物館として、1983年にこの開拓の村を開村した。面積は54ヘクタールに及び、63棟の復元や修復した建造物が並んでいる。これらの建物は道内の各地から解体されて運ばれ、修復・復元されている。異なる種類の建物が軒を接していたりするので、町並みに違和感があるけれど、その分テーマパークである点が演出される効果もある。
外に人が居ないので建造物に入っても一人である。その由来を知る建物の中では、一人であるの点で一層タイムスリップした感じに浸ることができる。記憶にも秘境の部分があって、こんな時にふいに現れて来る。
「北海道百年記念塔」
塔の名前にある百年を記念して建てた記念塔なので、高さが100メートルとなるように設計されている。札幌市の厚別区と江別市、さらに北広島市にまたがる2000ヘクタールの野幌森林公園の札幌と江別の市境界の札幌側に建っている。高い建物で色々な場所から見えるので、ランドマークの役目も担っている。しかし、観光客でもない限り傍まで行ってみるこれといった理由もみつからない。今回の秘境探検で、この塔は秘境の匂いがすると出かけてみた。
冬はこの塔の周りの雪原は、歩くスキーを楽しむ格好の場所になっているようである。しかし、週日ではそのようなスポーツに興じている人が遠くに一人いるかいないかといった塩梅で、人影の無い雪原が広がっている。ここは冬には大都会の郊外の秘境といってもよい。春が近づいて雪が硬くなっている上を歩いて赤錆色の塔に近づいてみる。
この鋼鉄製の塔は雪の結晶を表した六角形の基部の上に建っていて、曲線が上空に向かって伸びるデザインとなっている。塔の付け根の地上からの少し高いところに写真の北海道開拓をテーマにして描いた銅版製のレリーフがあるだけで、エレベータや階段の入り口は冬季には閉鎖されている。雪が溶けてから来ると、階段も開放されているだろう。そうなれば階段を登る羽目になることを思うと、それを避ける事ができる秘境の季節に来たのは幸運だったかもしれない。
この塔から札幌の市街地を望むと、遠くにビル群が並び、その向こうに雪化粧をした大都会札幌を囲む山々が輝いて見える。写真では伝えるのが難しい、春が目の前に来ている景色と空気を、秘境探検を口実にして楽しんだ。
2006年03月07日
「樺太関係資料館」
「赤レンガ庁舎」と呼ばれている北海道庁旧本庁舎は北海道のシンボル的な建物で、札幌を訪れる観光客なら必見の場所である。いつも観光客が訪れるこの建物は、外からは秘境とは無縁の場所のように見受けられる。庁舎内は無料で入ることができて、観光情報コーナー、北海道歴史ギャラリー、文書(もんじょ)館などがあって、来館者は気の向くところを見て回るようである。
普段は中に入って見ることもないこの北海道のシンボル的な建物に入ってみる。すると館内の2階の奥の部屋の入り口で、写真にあるように「樺太関係資料館」の文字が飛び込んで来た。室内に入ってみると、格調高い部屋に、いかにも展示棚を後で運び込んだというちぐはぐさが目立つ空間が、人気もなく広がっているのは大都会の秘境と表現してもよいだろう。
この資料館がここに造られたのは2004年と新しい。資料館の歴史は1992年に道庁の別館に「樺太関係資料室」が設置されたことに遡る。北方領土問題を身近な問題として抱える北海道に、この種の資料館があるのは当然としても、興味を持って訪れる人は少ないと見受けられる。今サハリンと呼ばれているロシア領が、かっては北緯50度を境にして南側が日本領になり「樺太」と呼ばれていた、ということを知る日本人は多くは居ないのではなかろうか。歴史の秘境部分である。
樺太を探検した間宮林蔵の足跡なども展示されていて、じっくりと見るとそれなりに興味が湧きそうである。ただ、現在では、調べようと思えば自宅に居てインターネットで検索すると次々と関連項目が出てくるので、資料館まで足を運ぶ必要もない。インターネットの普及が各種の資料館の秘境化の進行を早めているのかも知れない。
「札幌市手稲記念館」
西野屯田通を山の方に向かって進んで、北5条手稲通を過ぎて左側にこの記念館がある。小さな看板を見落とすと通り過ぎてしまう。この記念館は手稲町の開基100年を記念して構想が練られ、昭和41年(1966年)に同町が札幌市と合併したため、事業は札幌市に引き継がれた。この手稲町の郷土資料館は昭和44年(1969年)に札幌市手稲記念館として完成をみている。
館内は見学者もおらず、古色蒼然という感じの民具や資料が並べられている。室内の照明が落とされているので、自分で照明をつけてぐるりと見て回る。手稲遺跡の出土品から始まって、開拓時代の日用品まである。今や、どんな風に使ったのかは判じ物の農機具もある。写真や書類の類も展示されている。
手稲に生息している動物の剥製もあって、ヒグマもいる。開拓民を襲った大災害として、トノサマバッタの大群の襲来があり、その猛威がバッタ塚で示されている。バッタ塚とは、おびただしいバッタの成虫や幼虫を退治して砂地に埋めたもので、黒色の土に変化している。ガラスのケースに入ったバッタ塚の一部のサンプルが薄暗い資料室に展示されていて、周りの雑多な展示物とも相まって、外とは別世界を演出している。
この記念館は会議室や講堂があって、講堂では年配者が卓球に興じていた。資料室の訪問者はこの時はまったく居らず、地区の勉強会場や娯楽場として役に立っている施設と見た。しかし、一度きりの見学の印象なので、正確ではないかも知れない。
2006年03月06日
「モエレ沼公園」
札幌市には「環状グリーンベルト構想」というのがあって、市街地を公園や緑地の帯で囲い込もうとしている。その構想の東区の北部平地の拠点として、モエレ沼を埋め立てて造ったこの公園がある。公園は世界的な彫刻家イサム・ノグチが1988年に設計したもので、同年ノグチはニューヨークで亡くなっている。
イサム・ノグチは1904年ロスアンゼルスに生まれ、レオナルド・ダ・ヴィンチ・スクールで彫刻を学んだ後、アメリカを中心に各国で活躍している。同氏を札幌市に引き合わせたのは、当時札幌の若きIT企業家であったのは、この公園の成り立ちの秘境的部分である。その話を補強する材料として、この企業家の経営する会社にはイサム・ノグチ作の“つくばい”が置かれていて、現在でもいつも水を溢れさせている。
冬にこの公園を訪れると、大都会の秘境に組み入れてもよさそうな雰囲気である。写真のガラスのピラミッドが雪景色のなかで夏とはまた異なる景観を演出している。標高62メートルの人工のモエレ山は札幌市北東部唯一の山となっていて、スキー遊びの格好の場所を提供している。その他にも高さ30メートルのプレイマウンテンも雪で覆われている。近くにはステンレスの柱で三角錐を構成したテトラマウンドもある。
札幌の新名所となったこの公園は、雪が溶けて北国に緑が戻って来る季節にその価値を増す。夏の賑わいと冬季のひそやかさとの比較を行うのも、この公園の楽しみ方の一つである。
「水田発祥の史記念碑と中沼神社」
東区にある中沼町は今では住宅団地が広がっているけれど、かっては札幌近郊の水田地帯であった。その水田用灌漑に関する「水田発祥の史」の記念碑が中野幹線道路の脇にひっそりと建っている。写真のように雪の中に記念碑があって、手前に「モエレ沼」の碑も写っている。
このモエレ沼は埋め立てて一部を残して「モエレ沼公園」に姿を変えている。残っている沼はこの時期雪原にしか見えない。ここも冬は秘境と表現してもよさそうである。その雪原の向こうに、モエレ沼公園のテトラマウンド、人工のモエレ山やプレイマウンテンがあって、記念碑の写真の背景として写っている。
記念碑には、大正2年(1931年)この地で造田と灌漑が始まり、農事振興組合が結成され、市外化により断水ということになり、昭和49年(1974年)に農事振興組合が60余年の歴史を閉じたことが記されている。都市化が水田を消滅させていった歴史が簡単に説明されている。
水田のあるところには神社はつきもので、この記念碑の近くの中沼小学校の傍に写真の中沼神社がある。この社は篠路神社の境外摂社(末社)で天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)と天香山命(あめのかぐやまのみこと)が祭られている。鳥居がなければ、田舎然とした道にあるこの祠を探すのは難しいだろう。
2006年03月05日
「冬の平和の滝」
琴似発寒川は西区平和で支流の宮城沢川と合流する。この合流地点から少し手稲山側の道路を行くと平和の滝がある。霊場ではあるけれど、夏はマイカーで訪れる人も多くて、駐車場もあって秘境という感じでもない。ならば、冬には秘境に変貌するかと車で行ってみる。
冬は駐車場こそ雪に埋まっていたけれど、山スキーの愛好家の車が道路脇に並んで止まっていて、予想に反して人が居る。いつもここで山スキーを楽しんでいる人には、秘境探検といっても相手にされそうにもない。でも、これらの人を除けば、ここは冬には札幌の秘境と言ってもよいだろう。
夏場には滝の近くまで行ける小道は雪で埋まっていて、滝には近づけない。雪をかき分けて、すべり落ちないように気をつけながら、上の方から滝を覗き込むようにして写真を撮る。川の水が凍って滝の横には氷柱も下がっている。寒々としていて、やはりここの滝は夏に遊ぶところである。
平和の滝には「大平和寺」という修験道のお寺があるけれど、冬には雪のなかに埋もれている。近づいてお寺の中を見ようにも、雪の壁に阻まれ、体中が雪まみれになる覚悟がなければ近づけない。それほどの覚悟も持ち合わせていないので離れたところから写真だけを撮っておく。
相沢良のレリーフと「相沢良と「平和の滝」」の説明の看板が目に付いた。相沢は二十五歳で亡くなった戦争反対や労働者開放運動を行った女性活動家である。どうして彼女の足跡がここに残されているかというと、女性労働者とともに平和の滝までハイキングに来たことによると看板の説明文に書かれてある。あまり知られていない彼女は、その顕彰が秘境にあるせいなのか、と少し見当違いのことが頭をかすめた。
2006年03月04日
「ハイテクヒル真栄」
ここを秘境と表現すると異論が出そうである。しかし、札幌市が最初に描いた青写真の通りに、ハイテク企業がこの企業団地に社屋を建てた状況を想像すれば、現状との差を考えて秘境と表現したくなる。また、冬訪れると景観的にもそんな雰囲気もするところである。
1980年代に札幌の情報産業は新しい展開を迎えた。札幌市が厚別区下野幌に開発したテクノパークには地元のIT企業が社屋を新築し、その成功は本州のIT企業の誘致を柱にした第二テクノパークと発展して行った。これらテクノパークの面積は28ヘクタールで、札幌市はさらにその1.5倍の42ヘクタールの土地を清田区真栄に確保して本州の大手IT企業3社と契約を交わし、この3社が施設を建設しようとした時にバブルがはじけた。
経済環境が激変したことにより、これらの大企業の施設は建設されずに十年以上が経過して現在に至っている。現在3,4社の企業の社屋や施設が建っているけれど、これら当初に想定した企業のものではない。当然ながら、土地の大部分が空き地であり、冬期間は雪野原が広がり、一部は雪捨て場と化している。
もともとのコンセプトはテクノパークを踏襲しており、豊かな自然環境の中にハイテク企業が立地することであったため、緑地帯の中に分譲敷地がある。緑が濃くなった時期に訪れると、ここはなかなかよい場所ではなかろうかと思われる。
このハイテク企業団地の近くに、アンデルセン福祉村というのがあって、福祉看護の学院と老人保健施設が一体となって建っている。学院の学生とおぼしき若者が歩いていて、駐車場には車が並んでいる。ハイテクヒルの閑散な様子と比べると、人の姿が目に付くこちらの方が世の中のニーズに合っているのかも知れない。ITを中心にしたハイテク産業から福祉産業に流れが変わって来ている一面を見ているようである。
2006年03月03日
「ポリテクセンター内N30遺跡展示」
地域産業及び企業の発展と勤労者の技術・技能向上を目的として、職業能力開発に関する相談・援助を行うポリテクセンター北海道は西区のJR琴似駅の近くにある。このポリテクセンターを建てる時、敷地内から縄文時代の遺跡が見つかりN30遺跡と呼ばれている。遺跡の説明のパネルが廊下の隅にあり、出土品も展示されている。
ポリテクセンターは写真のように立派な建物で、訓練のための受講生も目に付き、秘境の雰囲気などない。近くには琴似の繁華街もあって、決して辺鄙な場所にある訳でもない。しかし、考古学に興味のある人から見ると、こんな場所に遺跡の展示があり、訪れた人がこれに注意を払わないだろうところが秘境的と感じるのではなかろうか。
発掘調査は1995~96年にわたって行われ、まず縄文晩期(2200年前)の生活跡が、さらに縄文中期から後期(3500~3000年前)の遺物が出土している。その中には板状土偶もあって、ガラスケースの中に収められている。円形の墓や、そこにあったサメの歯、石鏃、石のナイフなども見つかっている。
ケースに収められた黒曜石の鏃なんかをみていると、縄文時代に鏃を作るスキルが高かった者が未熟な者に教えていただろうから、この場所は縄文時代のポリテクセンターがあったかも知れないという思いに囚われる。
2006年03月02日
「無意根山荘」
札幌100秘境の話が新聞(道新2月20日付)に出て、TV局(UHB)がこの話題を取り上げることになった。番組制作会社の人が、著者が新聞記事でも言及していた無意根山荘の取材を提案して来た。この山荘は3月には取り壊すとの新聞報道があって、ともかく写真だけは撮っておかねばと考えていたので、この取材は渡りに舟であった。
しかし、著者は無意根山荘には行ったことがない。無意根山登山者がよく利用すると聞いていたので、てっきり登山道途中にある山小屋だろうと思っていた。冬山登山の経験もないのに、さてどうしたものかと最初は案じていた。インターネットで場所を検索すると、札幌市管理のこの施設は豊羽鉱山の近くの無意根山登山口にあるのを知る。これなら、近くまで車で行けそうなので、長靴を履いて行くことにする。
羽幌鉱山への雪の山道をひたすら走って、お目当ての山荘の近くまでたどり着く。山荘は雪の中に埋もれるようにしてあった。「札幌市無意根山荘」の看板の文字の一部はとれ、屋根の雪の重みで山荘の一部はつぶれかかっていた。周囲に人家や廃屋もなく、もちろん人影は我々を除いてはない。
この山荘は1965年に建設されているので、もう40年が経過している。山荘前には、多分スキー客のために設置されたであろうリフトが動かない状態で放置されている。スキーを楽しむ宿泊客も居たのだろう。マイカーの普及で泊まり客も日帰りの客となって、利用者が激減で2000年から休業に追い込まれ、いよいよ取り壊されることになった。
こういう廃屋をみると、何か人の一生と重なるものがある。全盛期には人も施設も大切にされるだろうが、役目を終えると放っておかれる。老残の言葉通り、この山荘もそして人も、朽ち果てているのが人目に晒される場合がある。このような秘境に立つと感慨深いものがある。
2006年03月01日
「豊羽鉱山」
興味を持って見ると、世の中漠然と思っていることと現実が大きく異なっているのに気づくことがある。今回札幌秘境探検で豊羽鉱山に足を延ばすことになったついでに少々調べたら、日本の鉱山はほとんど姿を消していて、金の採掘を除けば、いわゆる地底から鉱物を掘り出す唯一残っている北海道の鉱山が豊羽鉱山なのである。北海道にはもっと多くの鉱山があるのかと思っていたら二つ程度で、その一つの豊羽鉱山もこの3月には閉山する。
この鉱山が札幌市の都心部から40Kmのところにあり、政令都市札幌市の南区に鉱山があるのである。札幌は人口密集の大都会と思っていたら、南区は山だらけの、鉱山まである区であった。札幌の奥座敷と呼ばれる温泉郷定山渓からさらに山奥に伸びる道道95号線を走って豊羽鉱山に向かってみると、ここが政令指定都市札幌とはどうしても思えない。間違いなく北海道の山奥である。
山奥だけあって、定山渓あたりでは晴れていたのに豊羽鉱山付近では雪がちらついて、遠くから見る鉱山の入口あたりは写真に撮ってもはっきりしない。この入口に近づこうとするのだが、車で行く道が分からない。もっとも、鉱区への立ち入りは禁止されているので、分かったとしても近づくことはできないのだろう。仕方がないので「豊羽鉱山株式会社」の看板の架かった社屋の写真を撮ることにする。
この鉱山は銀や亜鉛の他にインジウムを産出し、一時はインジウムの埋蔵量・産出量は世界一を誇ったそうである。この原子番号49の金属はp型半導体を作ったり、液晶ディスプレイに使われたりするので、IT製品には欠かすことの出来ないレア・メタルである。それゆえ人件費の高い日本でも最後まで鉱山として生き延びて来たのであろう。しかし、鉱量枯渇のため廃鉱ということで、廃鉱の直前に駆け込みで写真を撮って来た。
会社の建物の一角には郵便局もあるのだけれど、当然ここも閉鎖となる。4年前には近くにあった豊羽小中学校も廃校になっている。校舎と思しきものがあったが、そこに通じる道は雪で埋もれて近づくことも出来なかった。豊羽鉱山が閉山となれば、この場所は人の居ない本当の秘境に変わってしまい、冬は深い雪の中に埋もれてしまうだろう。