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2006年05月31日

「中国画廊」

 大通西21丁目にあるこの画廊は、札幌の中国との交流史に特別な関係を持っている。1980年に中国駐札幌総領事館が設けられた時、この画廊が入っているビルの所有者が、建物を総領事館のオフィスとして提供した経緯がある。総領事館はしばらくの間ここにあり、その後南13条西23丁目に新しい建物を建てて移った。総領事館移転後にこの画廊が出来ている。

 筆者は今年に入ってから中国人の画家を札幌に招待することに関わったため、この画家を案内してこの画廊を訪れた。住宅街にあるこの画廊は表通りから入ったところにあるため、探して行かないとみつからない。ただ、画廊のある区画に辿りつけば、写真のように看板が出ているので場所は分かる。小さな庭があり、手入れが行き届いている。

中国画廊外観A.jpg

 建物の1階部分は会社の事務所で、2階には一般にも開放されている集会場があり、3階部分に写真の画廊がある。入場料は無料で、所蔵品の常設展の他に特別企画展が行われていて、中国の画家の絵が売られている。よく訪れる訳ではないので、常時どのくらいの来館者があるのか分からない。多分多くはないだろう。

中国画廊内A.jpg

 今回この画廊を訪問した中国人画家は札幌のギャラリーで自分の中国画の展覧会を行っている。その関係で、中国から持って来た写真の黄色の梅の大作を領事館に寄贈して行った。この絵がこれからどんな道を辿るのかによっては、未来において、札幌の秘境的エピソードに加えられるかも知れない。

馮氏絵A.jpg

投稿者 esra : 08:58 | コメント (0)

2006年05月30日

「ビール工場跡のサッポロファクトリー」

 日本のビール産業の発祥の地は札幌にある。開拓使麦酒醸造所(のちのサッポロビールの第一製造所)が1876年(明治9年)に造られている。そのビール工場の跡地に1993年複合商業施設のサッポロファクトリーが出来ている。この施設は北2条の東4丁目から5丁目にまたがる大きなものである。

 このようなサッポロファクトリーの歴史を語るものとして、この施設の東側入り口のところに写真の構内札幌神社がある。1912年(明治45年)札幌総鎮守札幌神社(現北海道神宮)の祭神の分祀により造られた神社とのことである。新しく設けられた敷地に小さな祠が納まっているだけで、秘境の雰囲気は無い。ただ、この神社の由来を知れば、今やブランドとして定着したサッポロビールの歴史の秘境部分の味はする。

ファクトリー札幌神社A.jpg

 一方サッポロファクトリーの方は約140のショップや施設があり、建物は一条館、ニ条館、三条館、レンガ館、西館の5つからっている。大きなショッピングモールでも、時間帯によっては人っ子一人居ない状態を目にする。サッポロファクトリーに開店間もない時間に入ってみると、写真のように人が居なかった。もっとも、写真に写っている場所はイベントホールとレストラン街で、午前中の早い時間帯には人はいなくても不思議ではないのだが、それにしても開店している店が並んでいて、人が居ない広い空間を目にすると、狐につままれたような気もする。

 このショッピングモールは大きなガラスの覆いのアトリウムになっていて、パリのオルセー美術館をちょっと連想する。ビール工場の跡地にあることもあって、かつて倉庫として使用されていた場所を利用したビアホールもあって、ビール工場内でビールの原点の味を賞味する趣向も凝らされている。

ファクトリー1A.jpg

投稿者 esra : 04:51 | コメント (0)

2006年05月29日

「力士若勇碑と新川桜並木」

 真っ直ぐな琴似川に沿って、これまた真っ直ぐな新川通が川の両側にそれぞれ一方通行となっていて、この道は交通量が多い。この道路の川岸の歩道に沿っては並木があるだけで、他に何も無い。したがって、片側三車線の車道を越えてまで川岸を歩く人はほとんど見かけない。

 車で毎日のようにこの道を利用していた頃、北24条の交差点のところの橋のたもとに碑があるのに気づいていた。しかし、車を止めて碑を見る気にもならなかった。車を運転している人なら、車の流れに乗らねばならないので、この碑に興味を示す余裕はないだろう。しかし、車がひっきりなしに走っていても、人が足を止めそうもなさそうな場所がそこにぽつんとあるのを見て、これも一種の秘境ではなかろうかと、この碑に足で近づいて調べてみることにする。

力士の碑1A.jpg

 この碑は本名を前谷省三という、山県礪波村から北海道に渡り琴似村新川地に居を定めた素人相撲の巧者の記念碑である。写真の道路のプレートにあるように、四股名を若勇と称し、強かったらしく、1935年(大正10年)の引退相撲で得た賞金で碑が建てられた。ただ、単に相撲の人気者であっただけでなく、村会議員を努めた人望が碑の建立に結びついているようである。

 現在、琴似川の両サイドに2キロ程度に渡って桜の若木が植えられ、最近花をつけるようになっている。今年はくだんの碑の写真を撮りに行った時には桜の見ごろを過ぎたか、まだ成木になっていないので花のつき具合がそれほどでもないせいか、桜並木といった感じではなく、写真のように桜が咲いている程度であった。碑のある場所は、今は訪れる人もいないけれど、5年も経てば市内でも桜並木の名所として、桜の季節に多くの人が訪れる場所になりそうである。

力士の碑地面A.jpg

投稿者 esra : 02:04 | コメント (0)

2006年05月28日

「北大構内黒ユリ群生地」

 新聞を見ていたら、北大の学生が構内に黒ユリの群生地を作って、将来北大の名所にするとの写真入りの記事が出ていた。黒ユリはかって北大構内に数多く群生していたものが大学の規模拡大とともに消滅してしまって、「幻の花」と言われている。幻の花の群生地出現なら、これは秘境になりそうだと早速出かけてみた。

 場所はポプラ並木の近くとのことで、ポプラ並木を目指す。ポプラ並木は倒木の心配があって、奥の方には進めないように柵で立ち入り禁止となっている。ちょうど、この柵の横に写真のように黒ユリが花をつけているのが目についた。これが新聞で報道されていたものである。約七百個の球根を植えて、そのうち百個が花をつけている。

黒ユリ群生1A.jpg

 少々人工的な感じのする群生ではあるけれど、黒ユリが蘇っていて、北大の新名所になるかも知れない。この群生地からは北大の農場と、その向うに桑園の街並み、さらに手稲の山々が望めて、ポプラ並木は散策できなくても黒ユリのある場所につながって整備が進んでいる花木園を散策できる。旧五千円札に顔が印刷されていた、北大が生んだ歴史的な著名人の新渡戸稲造の顕彰碑もここにある。

黒ユリ群生2A.jpg

 北大に絵画サークルがあって活動している。名前を「黒百合会」と称して、当時北大の前身の東北帝大農科大学の英語教師であった有島武郎が名づけ親と言われている。有島は小説家で有名であるけれど、絵も描いた才人でもある。筆者が北大の学生の頃「黒百合会」の絵画展の案内を目にしていたけれど、北大在職期間が長くなるにつれてそのような案内を目にすることが少なくなっていった。今回の黒ユリ群生の再生プロジェクトは黒百合会のメンバーが取り組んでいるとのことで、展覧会でないところで同会の名前に遭遇したことになる。

投稿者 esra : 05:19 | コメント (0)

2006年05月27日

「札幌市道路元標」

 こんなに人通りの多いところに隠れるようにしてこの石碑があるのに気がついた。場所は写真のように旧北海道庁の門の脇である。石碑が写るように人通りが途絶えた時に写真を撮っているので、石碑の存在感がある。しかし、通常は通行人に隠されてしまっていて、ここに石碑があるとは気がつかない。

道路元標道庁門A.jpg

 この石碑には「札幌市道路元標」と記されている。つまりは、札幌市の道路がここから始まる(あるいは終わる)ことを意味している。このような石碑があるのは、法律で設置が定められたことによる。その法律とは1919年(大正8年)に制定された道路法である。写真の元標に関する説明では1928年(昭和3年)に建てられて、1982年(昭和57年)に復元されている。法律の制定と実際の設置に年の開きがあるのは、いろいろ手間取ったせいとも考えられるけれど、詳しいことは知る由もない。

道路元標石碑A.jpg

 このような道路元標は札幌市となる前に札幌の村々にもあった証拠を東区の「札幌村郷土記念館」の玄関内で見つけた。写真のものがそれである。こちらは石の古さからみて復元されたものではなく、元の元標らしい。この記念館の付近の放っておかれたものを拾って来て置いてあるとのことである。他の村の道路元標は残っているのだろうか。

札幌村道路元標A.jpg

 1952年(昭和27年)に新しい道路法(現行法)が出来て、元標を設置する必要が無くなってしまった。そのため、以後新しく元標が作られることはなく、昔の元標が復元されものが残っている札幌市のような例がある。このような事情を知ると、道路の歴史を刻んだ小さな秘境空間になっていると感じる。

 それにしても、都市の中心とはどこにあるのだろうか。汽車が交通手段の中心であった時代には駅が都市の中心であったかも知れない。自動車時代になれば道路が主役で、道路の元標が都市の中心と言ってもよいかも知れない。しかし、新しく出来た市で元標が元々無い都市の場合には、道路の起点は簡単には定まらないだろう。さてそのような場合にはどこが都市の中心なのだろうか。

投稿者 esra : 02:13 | コメント (0)

2006年05月26日

「サクシュコトニ川の源流」

 滔々と流れている川の源流のイメージは山間の沢の湧き水からの幾筋かの流れが集まり、小川の形になって行くといったところであろう。源流の流水が一番細く、下流に行くに従って豊かな水を湛えた流れになる、のが自然の川というものである。ところが大都会を流れる川はその逆の場合がある。

 「サクシュコトニ川」と呼ばれる川が北大構内を流れている。川の名前にある「サクシュ」はアイヌ語で「浜の方を通る」で浜とは豊平川で、「コトニ」は窪地で、豊平川の近くの窪地を流れる川の意味だとの解説がある。現在は「コトニ」は「琴似」の漢字が当てはめられ、琴似は窪地の意味に由来しているのか、と新しく仕入れた知識である。

 この川は写真のように北大の第一農場の縁を直線状で流れていて、その先は遺跡庭園を抜け、新しく出来た北18条に沿ったエルムトンネルの脇に川筋を作っている。しかし、ここら辺では水量が減っていて、トンネルの出口あたりでどこかに消えてしまっている。

サクシュコトニ川-農場A.jpg

 川には流れる方向があるので、この川を上流方向に辿ってみる。農場から直角に曲がり、工学部横の大野池あたりでは水量を増している。さらに上流は弓道場の横の水路となり、北大構内にこんな水辺があったのかと思うぐらいに整備が行き届いていて、鴨などが遊んでいる。

 さらにこの川は中央ローンを流れていて、その先のクラーク会館の近くの芝生に写真の水の放水口があり、ここで川は行き止まりとなる。つまり、このポンプで汲み上げた水がこの川の源なのである。源流ほど水量が多くて水の流れがはっきりしていて、それが草むらに隠れるような川となり、いつの間にか消えてしまう。まるで自然の川の逆向きを水が流れているようである。人工の川とはそういうものなのだろう。これは自然を再生したのではなく、人工的なものを新しく造りだしたと考えた方がよさそうだ。

サクシュコトニ川ー源流A.jpg

投稿者 esra : 04:08 | コメント (0)

2006年05月25日

オブジェの寄り道

 秘境探検の寄り道です。市内には色々なオブジェがあります。以前の彫刻の寄り道同様「奥の細道」型発見記ですので、オブジェの名称を織り込んで句をつけておきます。

北を指し 冬の翼で 飛ぶ少女A.jpg

北を指し 冬の翼で 飛ぶ少女

その昔 くじらのお海と 名づけしがA.jpg

その昔 くじらのお海と 名づけしが

役所前 北の祭りも いかめしくA.jpg

役所前 北の祭りも いかめしく

投稿者 esra : 08:45 | コメント (0)

2006年05月21日

「札幌焼窯跡と旭山記念公園」

 中央区界川4にあるこの公園は、今は無い札幌の地名を関する産業と縁の深いところである。札幌焼と呼ばれた陶器産業がそれで、近くの円山付近の粘土とここの沢水、森林のマキを利用して、1915年(大正4年)頃には北海道の陶器生産の拠点になって栄えた。しかし、本州から陶磁器の流入や札幌焼に関係していた企業の倒産とともに、大正期の終わりには札幌における陶器作りは衰退してしまった。

 また、この公園付近は元々牧場があり、宅地化が始まり牧場が廃業していった後、1924年には界川1で札幌温泉が開業している。この温泉は定山渓から界川までコンクリート製の管で湯を持ってきて沸かし直して利用した。しかし、トラブルもあって、六年で営業を終える「幻の温泉」となった。その後1966年に市民記念植樹が始まり、都市計画に組み込まれて、札幌開基100年を記念して1970年には公園として開園している。現在は再整備工事が続けられている。

 この公園は札幌市を一望にできる地の利の良さで、札幌の人気の公園の一つである。この点で場所的には秘境ではないけれど、前述のような歴史を振り返ると秘境にも組み込める。実際、写真のように札幌焼の窯跡が公園入り口のところに保存されている。

札幌焼窯跡A.jpg

 公園を訪れたのが早朝であったため、人通りもなく、少し小高いところから朝の大気に霞む札幌市の景色は見ごたえのあるものであった。5月の半ばで園内の八重桜が見事に咲いていて、花見と森林浴にも適した公園である。夜景もすばらしいとの評判で、秘境100線に夜景がないので入れておくのも良いかなと考えている。
旭山公園A.jpg

投稿者 esra : 04:23 | コメント (0)

2006年05月20日

「星置の滝」

 星置川は一部札幌市と小樽市の境界となっていて、札幌の西の端になる手稲金山3-3を流れている辺りに星置の滝がある。アクセスする点から言うと、国道5号線でJR星置駅あたりで手稲山の方向に折れて行く道に沿って走り、手稲西小学校の横あたりに滝がある。ただし、この辺から滝の上部には下りて行けない。

 滝への入り口は小学校まで行かない手前に写真の看板が出ているので、ここから階段を下りて行く。早朝で誰も目につかない石の階段を、5月の半ばの緑の森と星置川の清流を横に見てすこし下って上ると、急に滝が現れる。ただし、滝の近くまでは行けない。雪解け水がまだ手稲山から流れてくるせいか、滝の水量は多いようで、飛沫を上げて川水が落ちてくる。札幌の市街地から少し入ったところに、このような野趣溢れる景勝地があったとは、これまで知らなかった。

星置の滝入り口A.jpg

星置の滝A.jpg

 星置川は札幌市手稲区から小樽市を通過して石狩湾に注ぐ。手稲山から石狩湾に短い距離で直結する清流であることもあって、この川には秋に鮭が遡上するのが見られるとのことである。しかし、実際に見たことはない。

 国道5五号線沿いに、星置川を挟んで札幌市側には星置き神社、小樽市側には星野神社があり、これらの神社近くにはJRの「ほしみ(星観)駅」もある。どうしてここら辺に星がつく地名が多いのか知らない。でも、星の字がつくと何かしらロマンチックである。さらに、星置の滝の上流には乙女の滝が地図に記されている。そこまでは足を延ばしてはいないけれど、星に乙女とはロマンチック秘境ゾーンではある。

投稿者 esra : 10:33 | コメント (0)

2006年05月19日

「熊の出る西野市民の森」

 札幌は南と西に山が連なり、山に入ることで市民が容易に自然を満喫できる。札幌の魅力の一つである。しかし、北海道ならではの問題点もある。それは熊の出没である。札幌を取り囲む山々の裾野には多くの散策路が整備されていて、雪のないシーズンには歩いて楽しめるのに、熊がそれを妨げ秘境化させている場所もある。

 西野の「中の川」に沿って登って行くと「西野市民の森」の入り口に到達する。ここから2キロ程の散策路を歩けば宮丘公園へでることができる。しかし、散策路の入り口には熊出没注意の看板が出ている。加えて、入り口近くには写真のように「市民の森ではヒグマに注意しよう」という大きな看板も設置されている。臆病者の筆者にはこれは相当なプレッシャーである。一人歩きでもあるし、何かあれば一目散に逃げようと(熊と遭遇した場合は悪い対処の仕方とは聞いているけれど)心に決めて、恐る恐る熊出没注意の看板を越えて行く。

西野市民の森熊出没A.jpg

西野市民の森看板A.jpg

 熊の心配がなければ、この散策路は新緑の季節には快適である。散策路の途中までしか行かなかったけれど、中の川の源流に近づいて清流を楽しめる。散策路は王子製紙の私有地内の道にもつながっていて、その道を登っていくと手稲山の山頂に通じるらしい。しかし、本格的な山歩きには食指がのびないので、本当にここから手稲山頂まで行けるのかどうかは調べてもみなかった。

 それにしても、人里近くでの人間と熊の共存とは難しい。市民の森の入り口の注意書きにも書いてあったように、熊は食べ物を求めて歩き回っているので、食べ物の残りを捨てたり、埋めたりしないようにするのが、散策路を利用する上でのマナーとなる。熊にマナーを教えることができない以上、人間がマナーに気をつけるしかなく、せっかくの散策路を秘境化させないようにするささやかな気配りでもある。

投稿者 esra : 03:16 | コメント (0)

2006年05月18日

「大都会の小川-安春川」

 この川は人工の川である。その成り立ちは古くて、1890年(明治23年)に湿原の開墾ために屯田兵によって開削が行われて、地図上でも直線の川が出来た。その後、札幌の都市化が進み川は干上がり川とは言えなくなっていた状況で、下水道水緑景観モデル事業に採用され、1988年から河川敷の整備が行われた。下水道の高度処理水が流されて、現在の水辺に蘇ったという大都会の小川(一級河川ではあるけれど)の歴史がある。

 道路も川も真っ直ぐな北区新琴似を流れる安春川まで、迷わず車で着いてこの川の両岸を散策する。それにしても立派に整備された川である。しかし、ここは水が流れているけれど、いわゆる川というより用水路の感じに近い。週日の午前中に、長々と続く散策路を歩いても人に会うことはほとんどなく、たまに犬を散歩させている年配者に出会うぐらいである。お金をかけて立派な水辺の散策路を作っても、利用する人がいないのではもったいないことである。

安春川1A.jpg

 冬季に雪を安春川に投げ込んで川を汚さないようにとの配慮で、両側の道路の流雪溝が設けられているそうである。国の事業となると、お金をかけてとことん整備が進むようである。整備に比例して川は人工的なのものなって、自浄作用のある自然の川から遠ざかってしまう。「春の小川はさらさらゆくよ。岸のスミレやれんげの花は…」の春の小川は都会ではもう見られなくなって、ここに遊ぶ子供達の小川に対するイメージが変わっていくのも時代の流れか。

 人が来ない代わりに鳥が来るようで、写真のように鴨が流れで遊んでいた。鴨にとってはよい水辺ができたに違いない。

安春川鴨A.jpg

投稿者 esra : 03:06 | コメント (0)

2006年05月17日

「札幌、江別、北広島三市境界点」

 オフィスのある札幌エレクトロニクスセンターに通うため、筆者は野幌森林公園の縁を走る厚別青葉通りともみじ台通を利用している。青葉通りは札幌市と北広島市の境界に、もみじ台通は札幌市と江別市の境界に沿っている。この関係で青葉通からもみじ台通につながるところの近くに札幌、江別、北広島の三市の境界点が現れる。

 地図には当然ながらこの三市の境界点の位置が示されているけれど、実際のところこの境界点はどうなっているのか見たくなった。地図にはもみじ台南側緑地(札幌市)でパークゴルフ場になっている場所の近くにこの境界点があるので、歩いて行けそうである。札幌市と北広島市の境界になっている熊の沢川を横切って、北広島市側にある農家の敷地に入り込んだ。そこに居合わせた土地の所有者らしき人に境界点の位置を聞いたら、すぐにその場所に案内してくれた。これが三市の境界点と説明してくれたところには写真の礎石があるだけである。ここしかない三市の境界点なら、秘境探索ツアーに組み込め、その時はここに看板が建つかも知れないなどと思った。

三市境界点礎石A.jpg

 ここから札幌側には、写真の熊の沢川を越えて川の向う側にすこし高いなった雑木林があり、それを突き抜けると厚別青葉通の端あたりにぶつかる。そこにはもみじ台南中学校があり、この学校は青葉通りともみじ台通の二つの通に面してある。境界点の江別側も雑木林が続き、ここはもう国有地の野幌森林公園である。境界点付近は国有林や財務局の道路用の土地があり、持ち主が国、市、民間と複雑になっている点も説明してくれる。

 境界点傍の熊の沢川は元々は清流だったのが、土地換えなどでこの川の上流(江別市)に移った酪農家が、搾乳に際して洗浄した後の汚水をこの川に流すため、「ざりがに」や「うぐい」が死滅してしまったことなども語ってくれた。秘境探検だったのに、予期もしなかった環境汚染問題に出くわしてしまった。 

三市境界点川A.jpg

投稿者 esra : 00:02 | コメント (0)

2006年05月16日

「JR千歳線上野幌駅」

 この駅は札幌市と北広島市の境界ぎりぎりの札幌側(東側)にある。1926年に野津幌駅として開業して、1973年上野幌駅として移転開業で無人化となり、1998年に有人化の業務委託駅になっている。写真のようなプレハブの駅舎で、大都会札幌と千歳を結ぶJR千歳線にこんな小さな駅があるのは秘境の雰囲気である。

 ただ、この駅は曜日と時間帯で秘境ともなれば、生徒で混雑する駅にも変わる。駅の近くに私立の高校や中学があるため、これらの生徒の登下校時はこの小さな駅とプラットフォームは生徒達でいっぱいになる。駅と学校を往復するために駐輪している自転車も数多く並んでいる。この駅は生徒のための駅といってもよいだろう。

上野幌駅舎A.jpg

 駅舎の反対側には線路の下のトンネル道で抜けられるので反対側からも写真を撮ることにする。トンネルをくぐり、駅舎の反対側の土手道を少し登ると駅構内(というより線路)に出てしまう。一応「構内立ち入り禁止」の看板はあるものの、柵も無く土手道がそのまま線路につながっているので、看板のあたりが限界かと立ち止まる。電車でも来たら線路間際で写真を撮ろうと待ち構える。生徒達はプラットフォームの上で、こちらは線路より低い土手道でお互い電車を待っている。

 到着した電車と、プラットフォームにある接続駅の案内板を一緒に入れた写真を撮る。この写真の雰囲気は田舎の駅である。でも、この案内板を拡大して接続駅名を見ると札幌側が新札幌駅、北広島側は北広島駅となっているから、千歳線でも重要な二つの駅の中間にある駅で、決して田舎の駅ではないことが分かる。

上野幌駅線路A.jpg

投稿者 esra : 03:39 | コメント (0)

2006年05月15日

「花見で寄り道です」

 北海道の春は花が一斉に咲きます。秘境探検も花見で寄り道です。
それぞれに句をつけておきます。

 窓の外 雪降ったかと 白桜
 青空に ピンク押し出す 山桜
 近づいて 白木蓮の 白さ見る
 
 庭の桜の咲く順番を見ていると、山桜、そめい吉野、八重(かなり遅い)と続きます。我が家のそめい吉野は白くて、この桜の満開の季節、二階の窓をふさぐかのように咲いている朝には、本当に雪の日かと錯覚しそうになります。

 こぶしと木蓮は似た木花ですが、こぶしは花が全開するのに対して、木蓮は全開しません。最近になって知ったことです。

窓の外 雪降ったかと 桜白A.jpg

青空に ピンク押し出す 山桜A.jpg

近づいて 白木蓮の 白さ見るA.jpg

投稿者 esra : 01:49 | コメント (0)

2006年05月14日

「パンダの棲む街…その2」

 絶滅危惧種のパンダの札幌市内での生息例を調査していて、今回はその第2報です。写真のパンダは藻岩下公園に一匹で座っているのですが、何のポーズをとっているのか分かりません。「こりゃまいったな」とでも言っているようです。パンダの背後に写っているのは豊平川に架かるミュンヘン大橋です。ミュンヘン大橋についてはレポートしてあります。

藻岩下公園パンダA.jpg

 「遊んで、遊んで」と言っているような写真の遊具のパンダは宮の森4条12丁目の「さんかく公園」に居ました。小さな空き地のような公園ですが、子供達の遊び場になっているに違いありません。

パンダさんかく公園A.jpg

 変わったところに巣くっているパンダの例は、琴似発寒川に沿っている番地の平和1条にある西野神社のお守りです。写真のようにこの神社では「たれパンダ」のお守りが売られていました。お守りも現代風なキャラクターが揃っていて、たれパンダもその仲間入りです。

パンダのお守りA.jpg

投稿者 esra : 04:11 | コメント (3)

2006年05月13日

「ミュンヘン大橋のバルコニー」

 ミュンヘン大橋は豊平川に架かる橋で、福住桑園線にある。この線は札幌の主要な道路の一つであり、交通量も多く、ここに秘境が存在するのは考えられない。斜張橋で形の美しい橋でも、車で通過してしまうだけなら他の橋と変わらない。しかし、徒歩(自転車)でこの橋を渡る場合、橋の途中のバルコニーに立ち止まることのでき、こんなところにこんなものがあるのか、といった意外性で秘境の要素を備えている。

 この橋は札幌市創建120年記念事業とミュンヘン市との姉妹都市提携15周年を兼ねて1987年に着工され、1991年に完成している。写真に示すように長さ172メートル、橋の中央にある主塔の高さ53.5メートル、片側2斜線に中央に1車線の幅がある。橋名として外国の都市名が初めて採用され、夜にはライトアップされる。

ミュンヘン大橋1A.jpg

 この橋の中央部分の両側に、張り出すようにしてバルコニーが設けられている。この橋は車で何度も通過しているけれど、車からこのバルコニーにレリーフが設置されているのには気がつかなかった。このレリーフはミュンヘン市の有名な建築物が選ばれている。写真のものはその一つで、これは凱旋門である。その他のものとしては、ニンフヘンブルグ城、オペラ劇場、聖母教会、新旧のミュンヘン市庁舎である。それぞれのレリーフには簡単な説明がついているので、このバルコニーを散策すると、ミュンヘン市に関するちょっとした観光知識も増える。

 徒歩でこのバルコニーにレリーフの写真を撮りに行った時には雨上がり後で、雪解け水も加わって豊平川の水量が増し、写真のように濁っていた。通常の豊平川の水は濁りがないので、このバルコニーからの眺めはもっと良いはずである。このバルコニーから札幌市街が一望にできるのも、一般の市民にはあまり知られていないのではなかろうか。このようなスポットに出会うのは、秘境探検で得られる成果のうち、楽しい方に属するものである。

ミュンヘン大橋2A.jpg

投稿者 esra : 06:14 | コメント (0)

2006年05月12日

「藻岩山平和塔」


 長いこと札幌の市民であって、藻岩山の裾野を車で通ったり、来客を案内して藻岩山のケーブルカーに乗った時に、仏舎利塔とおぼしき白い塔を目にしている。しかし、傍まで行ったことがない。また行く気にもならなかった。札幌の秘境探検を始めて、ここは秘境くさいと狙いをつけて、藻岩の雪解けが進んで山麓の桜が咲き始めた頃、平和塔と呼ばれるこの塔のある場所に行ってみた。

 藻岩山のケーブルカーの麓の駅から山道に歩いて入る。岩でごつごつした写真の山道を誰にも会うこともなく登って行く。途中はまだ新緑に染まっていない木々が続く。かなり登ったところに石の階段があり、さらに登ると前方に写真の平和塔が現れた。塔の正面中央に金色の仏陀の像が据えられている。訪れる人も居ないようで、供物台、供花台には何も置かれていない。

平和塔山道A.jpg

平和塔A.jpg

 近くにある石版の説明文を読む。この塔は太平洋戦争の犠牲者の冥福を祈る目的で1961年(昭和36年)に建立されている。インドのネール首相が平和塔建設に賛意を表して、仏陀の真身舎利(遺骨)を贈り、これがこの平和塔に納められていると記されている。この説明文を読んで、仏陀の本物の遺骨なんて残っているのだろうか、そもそもどうして二千五百前の人とも言われている仏陀の、本物の遺骨だと断定できるのだろうか、等などの疑問が頭をかすめたけれど、答えの期待できない問題はすぐに忘れて平和塔を一周する。特に変わったものもないけれど、人の居ない山中にあるこの塔とその周囲は大都会札幌の秘境と表現してもよさそうだ。

 ここからは周囲の木々が邪魔にはなるけれど、札幌の市街が一望にできる。海抜530メートルの藻岩山は、アイヌ語で「インカルシベヌプリ」ト呼ばれていて、その意味は「眺めのよい山」である。確かに、高層ビルが目立ち始めている札幌を、山の中腹にも到っていない平和塔の場所から眺めることができるこの山は、眺めの良い山である。

投稿者 esra : 03:37 | コメント (0)

2006年05月11日

「彫刻の道」

 札幌市都市景観賞というのがある。1983年に第1回目の選考と授賞があり、2年毎に選考が行われ、昨年2005年は第12回目となる。1989年(平成元年)の第4回目には、建設者が札幌市で設計がパシフィックコンサルタンツの「宮の森モール~彫刻の道」が選ばれている。20近く前のこの景観賞に偶然出会うことになった。

 この4回目には札幌のIT企業のデービーソフト(株)とビー・ユー・ジー(株)の社屋がLINKの総称で受賞している。設計者は(株)アーキテクトファイブ一級建築士で、鹿島建設が建築を受け持った。社屋が建っている札幌テクノパークが新しく建設され、IT企業の勃興華やかなりし頃のことである。この両社のうちデービーソフトはすでに無く、ビー・ユー・ジーは現在も同じ社屋で健闘している。

 彫刻の道は中央区宮の森3条12丁目付近にあり、札幌彫刻美術館やそれと向かい合わせにある本郷新記念館へ続く道を指している。石畳で舗装されていて洒落た道となっている。この道の真ん中の松の根元に写真の本郷新の「奏でる乙女」の彫刻が置かれてある。近くに写真の札幌市都市景観賞のプレートが置かれているけれど、20年近くを経過するとプレートの文字はほとんど判読できなくなっている。

彫刻の道乙女像A.jpg

彫刻の道プレートA.jpg

 少し坂道になっている彫刻の道を上ると、庭に本郷の作品が置かれている前記の二つの彫刻の展示館がある。本郷の彫刻は札幌市内のあちらこちらに置かれていて、JR札幌駅南口広場の「牧歌の像」や大通公園の三人娘の「泉」が一番目につくもので、観光都市札幌を演出している。昨年は本郷新の生誕百年の年でもあった。

投稿者 esra : 02:11 | コメント (0)

2006年05月10日

「上山鼻神社」

 この神社は札幌100秘境の掲示板に投稿されたNo.32の軍艦岬(付近)にある。No.32を投稿された方とメールでのコンタクトが取れないので、この神社を探検したレポートをここに載せておく。No.32の方、もしこのリポートを見て、一緒にまとめて秘境100選の原稿に書き直そうと思われたら、メールアドレスを記載して返信かコメントをお寄せください。

 定山渓に向かう国道230号線が山鼻川を横切るあたりで、藻岩山の山裾に写真の上山鼻神社がある。この神社には写真の馬頭観世音碑があって、馬匹(ばひつ…馬のこと)の無事息災を祈願したのが神社の始まりだそうだ。その事もあってか、馬霊奇神社の碑が置かれてあって、神社が重なっているようである。神社は道路際にあり、それほど上らなくても近づける。近くに住む人の話では、もともとはもっと山の上にあったものを、お守りが大変なので下に移動させたそうである。どうやら付近の住民が神社を守っているようである。桜の季節には周囲の桜が見事であるとの話もあったけれど、探検した時は辺りの木立には緑もほとんどなく、春はこれからというところであった。

上山鼻神社A.jpg

上山鼻神社馬頭観音A.jpg

 上山鼻神社がある辺りは、藻岩山が山鼻川に急に落ち込んで、遠くから見ると軍艦の波を切る喫水の舳先(普通の船とは形が上下逆になる)に似ているので軍艦岬とも呼ばれたらしい。ここは1921年(大正10年)に天然記念物指定を受けた藻岩原始林の縁になり、それを示す看板も見える。

 この神社の近くに北海道電力の藻岩山ダムがある。豊平川の上流にある藻岩ダムから取水が行われ、藻岩発電所からの水は山鼻川に放水され、豊平川に運ばれる。この発電所は札幌市街地に一番近い発電所である。

 発電所付近の山鼻川は河川の整備が行き届いている。藻岩下と呼ばれるこのあたりには住宅地が広がっていて、山鼻川や豊平川の氾濫で農地が水浸しになり離農者が続出した歴史は、今は感じられない。

投稿者 esra : 01:18 | コメント (0)

2006年05月09日

「早朝のススキノ」

 歓楽街ススキノは夜は人で賑わっていても、早朝は秘境感が漂っているだろうと見当をつけて出かけてみた。特に日曜日の早朝なんかは誰も歩いてはいないだろうと予想して出向いてみたら、これが期待はずれであった。

 まず、タクシーが客待ちで並んでいて、酔いつぶれたような一団も目につく。考えてみると、土曜日の夜から飲み始めて、日を跨いだ連中が帰るタクシー代を節約すれば、ススキノ界隈に朝まで人がたむろしていても不思議ではない。そのうち始発の地下鉄やバスを待ちきれない客を求めてタクシーの群れが早朝のススキノに集まっているのも当然な成行きである。

 しかし、早朝のススキノは秘境である、という仮説を正しいものにしたい気持ちを抑えきれない。土曜日の夜にススキノに店が開いているのから人が朝まで残っているなら、店の閉まる日曜日の翌日の朝、つまり月曜日の早朝なら人も居ないかとまた出かけてみる。

 確かに、写真のようにススキノの中心部の札幌駅から伸びる大通の南5条付近でも、早朝の5時台には人はまばらである。タクシーもそれほど走っている訳でもない。さて、これをもって180万都市札幌の秘境と表現してよいかどうか、評価はまちまちとなるだろう。

朝のススキノ1A.jpg

 ただ、歓楽街の早朝には哀感が漂うのはどこも共通ではなかろうか。写真のように、足を止める歩行者の居ない路上で、わめくように歌っている若者なんかがこの哀感を増幅させる。すれ違う、夜を徹したと思われる人の顔にも疲れのかげが濃い。秘境探検なんかで張り切っている、朝起きの著者の対極にある顔である。

朝のススキノ2A.jpg

投稿者 esra : 02:43 | コメント (0)

2006年05月08日

「新善光寺天然石菩薩像」

 南6条西1丁目にあるこのお寺は、1984年(明治17年)に開基というから札幌では古刹である。長野の善光寺から寺名を分けてもらっており、ご本尊の一光三尊仏も本家善光寺の本尊に模して造られている。このお寺にある阿弥陀如来像は平安時代後期のもので、重要文化財級のものなそうだが、経費がかかるので重文申請は見送った、とお寺のHPに書かれてあった。

 このお寺の境内には天然石の「慈母観音菩薩」があると知って、実地検分である。早朝、車が混まない時間帯を狙って、人通りのほとんど見かけない「すすきの」を通り、境内に車を乗り入れる。それらしきものを探すと写真の石が目についた。説明がなかったが、大きな天然石はこれしかなかったので間違いないだろう。石の表面には確かに菩薩のお姿とおぼしきものが浮き出ている。この石は1968年に愛媛の河原で発見されたそうである。

 以前、シンガポールのセントサ島にある石の博物館というのを見物した事が思い出される。天然石にいろいろな形が浮き出たもののコレクションで、見ごたえがあったと記憶している。石のヌードなんかのジャンルもあって、女体が石の表面に浮き出たものが並んでいたのを思い出す。また、中国の成都市の武侯祠内の公園で、山水草木などの景観が浮き出ている石が売られていて、値切って1個買い求めたことがある。後でよく確かめると、石に人工的に描かれたものであるのが分かって、やられたという経験もある。

善光寺菩薩A.jpg

 このお寺は石に凝っているようで、境内には写真の石庭もあった。「すすきの」のはずれで石庭をみることができるのは意外である。ただ、石庭の砂利の手入が良くされておらず、この点が物足りなかった。

善光寺石庭A.jpg

投稿者 esra : 10:37 | コメント (0)

2006年05月07日

「大倉山シャンツェ」

 秘境というにはあまりにも有名な観光スポットではあるのだが、競技の行われていない時のスポーツ競技場は秘境感が漂う。標高307mの大倉山にあるこのシャンツェはラージヒル用のもので、札幌市内からも遠望できる。今回、秘境に挙げることができるかと早朝に出向いてみる。

 札幌彫刻美術館の横を通り抜けて、坂を上がり、宮の森1274番地にあるシャンツェに着く。早朝のこともあり駐車場は閉じられているけれど、道を行く自動車もないので、車道が駐車場代わりである。写真の人っ子一人いない競技場は秘境の形容詞がつく。写真に写っている「世界ノルディック札幌大会2007年2月」の横幕に前には昨年(2005年)9月に建立された1972年の札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」の歌碑がある。作詞者は河邨 文一郎氏である。歌碑の前のオブジェは國松明日香氏により制作されていて、勝利の女神ニケをイメージしていると思われる。

大倉山シャンツェ1A.jpg

 競技場内は雪がなく、緑のマットがジャンプ台の途中まで敷き詰められている。K点がサイドの色分けで確認できる。写真を撮ると、自分の影が朝日でマットに映り、このジャンプ台が東向きに作られているのが分かる。二人乗りのリフトがあって、ジャンプ台の頂上まで行けるのだが、早朝でリフトは動いていない。頂上から眼下に札幌市を見た写真は沢山のポスターを生み出して来て、ジャンプ台の頂上からはポスターのものと同じ光景を目にすることができるのだろう。

大倉山シャンツェ2A.jpg

 このシャンツェには「札幌ウインタースポーツミュージアム」も併設されていて、34年前の札幌冬季オリンピックの歴史やウインタースポーツについて見ることができるのだが、ここも早朝では覗くことができなかった。日の出から少し時間が経って、朝の光で照らし出された札幌市街を下の方に眺めながら大倉山を下った。

投稿者 esra : 09:32 | コメント (0)

2006年05月06日

「サッポロピリカコタン」

 定山渓の手前の小金湯温泉にある「札幌市アイヌ文化交流センター」の愛称としてこの言葉が用いられている。ここで、「ピリカ」とはアイヌ語で「美しい」とか「可愛い」という意味である。「コタン」はアイヌの住む住居地で、表題のものは「美しい村」といった言葉となる。施設のパンフレットの表記では「ピリカ(pirka)」と「リ」が小さく表記され、ローマ字表記では「r」だけなので、日本語の「リ」の発音ではないようだ。因みに札幌はアイヌ語の「サッポロペツ(sat poro pet)―乾いた広大な河」から来ている。

 GWの後半、天気も良かったので、札幌から定山渓への国道230線が混まないかと少しばかり危惧しながら、このピリカコタンの見学に出向いた。午前中のせいか、見学者は最初は探検隊だけしか居なくて、アイヌの家チセやプ(倉)を復元した歴史の里から見て歩いた。チセの内は写真のように、住居空間がガランとして、確かにパンフレットにある「アイヌの人々が大自然の中で暮らしていた時代へのタイムスリップ」を体験できたような気もする。もっとも今回は秘境探検なので、秘境感を体験できたかどうかが問題だった。

ピリカコタンチセA.jpg

 交流センターは3年前に開館した新しい施設で、立派な交流ホールや情報コーナーがある。展示室もあって、こちらは200円の入室料を支払って見学することになる。展示室には写真のようなアイヌの生活に使われた諸々のものが新しく作られて展示されている。触れても写真を撮ってもよい。ビデオ装置もあって、他に見学者も居ない館内で再生して見て、札幌市内でアイヌの祭りなんかが行われているのを映像で知った。

 さて、ここが秘境かどうかは判断に苦しむ。意外性という点では、最初からアイヌ文化に関する展示と分かっているので、それを知って行くと興味ある展示であっても意外性は少ない。人の行かないところ、とい意味では見学者は多いとは言えなくても、誰も来ないという訳でもなさそうだ。ただ、コストパーフォーマンスは悪そうで、秘境化に進む気配もありそうなので、ちょっと心配である。 

ピリカコタン展示室A.jpg

投稿者 esra : 15:33 | コメント (0)

2006年05月05日

「2004年秋の風台風の残痕」

 北大農学部付属植物園は研究を第一にして設置されており、市民への開放は第二ということになる。それは2004年9月8日に札幌を襲った風台風の残痕を園内にそのまま残しているところからも窺える。

 写真に示すように、植物園には足掛け二年前の台風で倒れた大木の根がそのままの状態で残されている。普通の公園なら、このような見苦しい被害の痕は撤去され、人為的な修復が施されているだろう。しかし、天災に遭遇した樹木や森林がその後どのように変遷していくのかは研究テーマの一つであり、植物園では台風での倒木の一部はそのままにしておく処置が取られているとの説明を受けた。

植物園倒木1A.jpg

 北大構内の楡の大木やポプラ並木もこの台風で折れたり根こそぎ倒れたりしてすさまじい惨状を呈していたけれど、現在では人目につくところはきれいに撤去されている。構内の原始林では予算の関係で撤去が進まないのかと思っていたら、これは植物園の方針の、放置してその後どのような状態になって行くのか観察するためなのか、と見方を改めた。ただし、本当にそうなのかどうかは確かめてはいない。

 写真の倒木は約100年前に植物開園初期にアメリカから導入されたヒッコリーで、胸高直径65cm,樹高30mとデータが看板に記されている。ヒッコリーの木はスキー板の材料として有名であるとも紹介されている。4月下旬の植物園内には、写真のように、倒木がそのままに朽ち果てていこうとしているところに、水芭蕉が花をつけている。この風景は毎年見られるのだろう。死んでいくものと新しい息吹との調和を見るようである。

植物園倒木2A.jpg

 植物園には札幌で最古のライラックの株やアカナラの大木を見ることができる。ビル街に接してこのような場所があり、植物の知られざる物語を知れば、秘境と表現が適する場所なのだろう。

投稿者 esra : 04:16 | コメント (0)

2006年05月04日

「北海道神宮頓宮」

 札幌市の中心部から少し離れた南2条東3丁目の一角にこの神社がある。頓宮とは仮の宮殿で行宮(あんぐう)と同義であると辞書にある。神社本社の仮の場所ぐらいのところが、独立した神社の体裁を整えるようになって行ったのだろう。

 神社の境内にある由来の説明では、大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の開拓三神に、この神社に詔勅を出した明治天皇も一緒に祭られている。1878年(明治11年)札幌神社(現在の北海道神宮)の遥拝所として創建され、一時焼失した歴史がある。

 この神社には札幌で最古の狛犬があるというので、探検の対象にした。週日の昼どきのせいか、街の中にあるこの神社には人影がない。参拝者の居ない拝殿の両脇に写真の狛犬が二体向き合っていた。札幌軟石で造られ1890年(明治23年)に奉納されたというこれらの狛犬は、確かに年季が入っている感じである。この狛犬は「出雲型」と呼ばれるそうで、狛犬の形にも名前がついているとは知らなかった。出雲型の名前がついているのは出雲石(来待石・・・きまちいし)で造られた狛犬が広まったことによる。また狛犬は写真のように構えているものと、座り姿のものに大別される。

屯宮狛犬A.jpg

 この境内にあるものはその他にも古そうなものがある。境内の石灯籠は道内最古と言われている。各種の碑もあって、天皇・皇后来道記念碑もある。社の裏側には大社札幌神社頓宮の文字が刻まれた写真の石碑なんかもあって、古いものに違いない。

 北海道神宮の末社のこの頓宮は、当然ながら北海道神宮のお祭りと連動していて、毎年6月に行われる北海道神宮例大祭の神輿渡御でここが一つの中継地となっている。境内には志望校入学の絵馬(木札)がぶら下がっていて、4月の入学時からほどない時期であることに気づかされた。絵馬は、的の中心に矢が当たったもので、これはずばり大願成就を絵で表している。

屯宮1A.jpg

投稿者 esra : 02:30 | コメント (0)

2006年05月03日

「ひふみみはなめ」

 この施設のパンフレットにある「ひふで 耳で 鼻で 目で 感じる館です。」というキャッチフレーズだけなら、これは人の五感検査の施設かと錯覚する。五感のうち味覚がないのではないか難癖をつけたくなるが、前記のキャッチフレーズに続けて「口はあなたがふだん飲んでいる水・・・」とあって、ここが水に関する、つまり豊平峡ダムにあるダム博物館であり、その名前としてこじつけている。

 GWの半ばの肌寒い週日に、豊平峡ダムまで車で行ってみた。訪れる観光客はほとんど居ないこともあって、ダムサイトから少し離れて隠れるようにして建っているこの施設を訪れたのは秘境探検隊のみで、秘境発見の少しばかりの興奮があった。予算をかけていると思うけれど、何のために、何ゆえこの場所に、五感を働かせるのを期待されるこの施設がなければならないか、五感をフルに働かせても感じ取ることができない。

 2階建ての展示室の1階は、壁面に豊平川の成り立ち等の説明パネルがあって、ガランとした室内の中央には写真のようにスクリーンボックスがある。スイッチを入れると札幌が大都会に変身していく様子が豊平川との関係でスライドを用いて語られる。原子修の豊平川の詩の朗読なんかがあって、館名の発案同様、詩文の世界への思い入れが、博物館という学問的な世界とミスマッチを起こしている。

豊平峡1A.jpg

 2階にはパソコンが並んでいて、これでダムの知識に接しなさいという意図らしいけれど、来館者がないところにPCが使われもせず並んでいるのは、どの施設でも共通の予算の使い方に窮した結果のようだ。写真のようなテーブルのあるコーナーもあって、ここで五感を働かせた成果でも語り合う場所を提供しているのかもしれないけれど、人がいなければ五感の出番もない。それにしても、利用されそうもなさそうな施設を造って、聞いただけでは見当もつかない「ひふみみはなめ」なんていう名前を付けているのは、その遊び心に脱帽である。

豊平峡2A.jpg

投稿者 esra : 01:10 | コメント (0)

2006年05月02日

秘境の寄り道

 本来は秘境探検ですが、寄り道します。というより「札幌花秘境100選」というテーマでの秘境探検もなりたちそうです。花の名前にはトンと興味がなかったのですが、秘境探検のレポートで花が出てくると調べる必要もあって、身の回りにこんなにも名前がきちんとついた(当たり前ですが)花があったのかと見直しました。春先の花も沢山あるのですが、3つばかり載せておきます。「奥の細道」型探検なので句もつけておきます。

名違和感 チオノドクサと 反復すA.jpg

名違和感 チオノドクサと 反復す

春先に 雪が残すか イチゲ花A.jpg

春先に 雪が残すか イチゲ花

萌え出る エゾエンゴサク オオウバユリA.jpg

萌え出る エゾエンゴサク オオウバユリ

投稿者 esra : 07:47 | コメント (0)

2006年05月01日

「水芭蕉の群生地星置緑地」

 地図で見ると手稲区星置1条5丁目の団地に接して、団地と同じ正方形の区画になっている星置緑地が水芭蕉の群生地とはとても思えない。地図で図って、JR星置駅から5分も歩けばこの小さな緑地に着くだろうし、住宅街に水芭蕉が好む湿地があるとは解せない。でもインターネットには水芭蕉が群生している写真も載っているので、探検に出かけてみることにする。

 GWに入って4月30日の日曜日、庭の山桜も咲かずちょっと寒さを感じる早朝、小樽に向かう国道5号線に乗ってこの緑地までドライブをする。確かに、大きな団地の横に緑地があって、早朝のせいか、犬の散歩の同伴者や常連とおぼしき散策者が2,3名で、都会の住宅地の朝に変わりない。しかし、緑地内は水芭蕉が丁度見ごろで咲いていて、湿地の水のあるところには鴨の姿さえ見ることができた。

 この緑地を散策している人に聞いて分かったことであるけれど、元々この辺りは湿地が広がっているところであった。そこに、団地が造られ、街が広がって行く過程で、湿地が団地の敷地に合わせて区画整理されて残されたとのことである。住宅街に湿地があるのではなく、湿地に住宅地が進出したのである。それでアスファルトの道路に囲まれた正方形の敷地の中に、水芭蕉の群生や木立の茂った場所があるのが理解できた。

 木の歩道の上から水芭蕉、やちぶき、延齢草、イチゲの花を同時に観賞できる。春先、ここは札幌の尾瀬と表現してもよい雰囲気である。近くに住む人には、ここは秘境でも何でもないだろうけれど、札幌市のJR駅近くにこれだけの自然が残されているのは、他の地域の札幌市民から見るとこれは秘境である。

星置緑地1A.jpg

星置緑地2A.jpg

投稿者 esra : 02:12 | コメント (0)