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2006年10月31日
旧拓銀本店ビルの取り壊し
本日(10月31日)の北海道新聞に「旧拓銀本店ビルが来月解体」の記事が出ていました。このビルに入って見られるのも明日11月1日(水)までだそうで、このビルを札幌秘境100選の一つとして取り上げている本が、解体直前に発行されて著者としては感慨深いものがあります。
発行された本は昨日から開かれている「札幌秘境100選写真展」の会場と札幌市内の紀伊国屋書店で販売されています。写真は旧拓銀本店のページです。一般人が銀行内の写真を撮ることができないところ、この消え行く行内を撮影した写真が掲載されている点で、この本は奇こう本になるかも知れません。写真展会場での売れ行きは予想以上で、この調子なら手元の本が無くなるのは意外と早いのではないかと思っています。
2006年10月29日
札幌秘境100選鼎談記事と写真展
10月29日(日)の北海道新聞に「札幌秘境100選」の出版に関連して、横内龍三氏(北洋銀行頭取)、黒田信一氏(北海道CMC社長)と私(青木)の鼎談記事が掲載されました。写真がその記事です。この記事は、明日(10月30日)から札幌時計台ギャラリー(北1条西3丁目)で開催予定の、秘境100選の写真展会場で写真と一緒に展示の予定です。
その写真展の展示写真の搬入を昨日行い、写真の飾りつけにかなり時間がかかりました。100枚の写真は結局1部屋(D室)では収まりきらず、結局もう1部屋使用することになりました。
この写真展では、出版されたばかりの「札幌秘境100選」(定価1000円)を即売の予定です。さて、会期中にどのくらい売れるのか見当がつきません。また、写真にも写っている2007年度のパンダカレンダー(定価1200円)も即売する予定で、こちらもどのくらい売れるのか予想ができません。ともかく明日からは本とカレンダーの販売に力を注ぐ一週間となりそうです。
2006年10月27日
鮭の遡る厚田川
秋になると、大都会札幌を流れる川に鮭の遡上が話題となる。一度は川を遡る鮭を見たいものだと思っていても、見る機会もなく秋は足早に去っていくのが毎年の事である。今年は大都会の秘境探検であちらこちらと行っており、鮭の遡上もこの目で確かめることができれば秘境のテーマに組み込もうと考えていた。
そんな時、新聞に橋の上から鮭の遡上を観察できる場所があるとの記事がでていて、早速行ってみることにする。場所は大都会から離れているけれど、石狩市厚田で、市内には違いない。厚田は二〇〇五年に市町村合併で石狩市、浜益村と一緒に石狩市となる前までは厚田村であった。この村出身の作家、子母沢寛の小説「厚田村」の地である。
新聞の記事の地図を頼りに、国道231号線を北に走り、厚田支所から道道11号線の月形厚田線に折れて進む。生憎の雨模様であったけれど、天気がよければ周囲の山々の紅葉が映える季節である。しばらくこの道を行くけれど、記事に出ていた脇道の林道古潭越線が見つからない。廃校になった小学校のところで停車する。
この小学校は「厚田村立発足小学校」で一九〇三年(明治三十六年)に開校し、百年後の二〇〇三年(平成十五年)に校史を終えている。現在は発足地区交流センターに衣替えしている。それにしても開拓から百年経って小学校が閉校になるとは、その点だけでみると開拓百年は後戻りの歴史であったのか、と考えざるを得ない。
発足小学校の元校舎から来た道を戻ると、途中に橋を見つけた。これが新聞に出ていた「やまなみ橋」で厚田川に架かっている。確かに道の看板も出ている。降りて橋に近づいてみると既に先客が一人居て、橋の欄干から川面を覗いている。鮭が見えますかと声を掛けると、水中ではっきりしない鮭の姿を教えてくれる。「ほっちゃれ」に近くなっていて、一部分表皮がとれて皮膚が白くなった鮭が流れに向かって留まっているのを確認できた。五,六匹を目で数えることができた。
この状況で鮭を写真に収めるのは難しいとは思ったけれど、何枚か撮ってみる。やはり、水中の鮭を確認できる写真は撮れず、鮭が白い腹を横にした瞬間のピンボケの写真が精々のところである。でも、鮭が遡るか産卵しているのかの現場を見ることができたので、来た甲斐があったというべきである。よい写真を撮るのは来年の課題にしようと思った。
2006年10月21日
秘境オタモイ
秘境探検と称してはいるけれど、人に知られざる場所という本来の語義とかなり離れたところを取材して歩いている。しかし、尋ねて行ったところで目にした案内板に、ここが秘境であると書かれているところに初めて出くわした。オタモイ海岸への入り口にあった写真の唐門の説明に「秘境オタモイ」の文字があった。
小樽の街は赤岩山、下赤岩山から続く高島岬と石狩の浜で囲まれた石狩湾の入りこんだところの港町として発展した。この高島岬の小樽の街と反対側に位置して赤岩海岸からつながってオタモイ海岸が伸びている。
小樽の街を貫く国道5号線を余市の方に向かって走り、途中長橋地区からオタモイ海岸への細い道へ入る。標識を探しながら道なりに進むと海岸の上の辺りに唐門が現れる。この門はオタモイ海岸への入口に一九三二年(昭和七年)に建立されたものが、オタモイにあった建物が焼失した後に残り、この場所に移転されたものであると説明されていた。
この唐門から海岸へ向かってつづら折りの細い坂道を対向車が来たらどうしようかと気をもみながら車で降りてゆく。下にはかなり広い空地がひろがりパーキング場になっていて、ここからオタモイの海と海に迫る断崖を一望にすることができる。訪れた日は雲ひとつ無く、凪の海面を水平線まで見渡せ、太陽の光が切り立つ崖に陰影を生み出し、絶景であった。大小の石が重なっている波際まで降りて見ると崖が迫ってくる感じである。
この場所は昭和初期には一大リゾート地であったと説明板に絵と写真入りで書かれていても、それを偲ぶ痕跡がない。唯一、崖から海に張り出して建築されていたという龍宮閣への隋道の門を遠くに見ることができる。この門は以前遊歩道とつながっていて、通ることができたのが、崖の崩落後通行禁止となっている。この門を通り越していくと子授けの地蔵があるそうだが、当然そこまでは行けなかった。
オタモイ海岸の観光開発は小樽で割烹を経営していた加藤秋太郎が行った。龍宮閣をはじめ、現在の車のパーキングの辺りには弁天食堂や遊園地があって、一日数千人が遊びに訪れたそうである。戦後の一九五二年(昭和二十七年)に建物が焼失して、この地はリゾート地としての幕を下ろした。そのような繁栄の時があったとは、人の居ないことも手伝って、この場所に立っても信じられなかった。
2006年10月20日
野幌森林公園には多くの遊歩道が整備されている。遊歩道が分かれるところにはどこに到達する道であるかの標識がある。そのような標識に「瑞穂の池」というのが目についたけれど距離がありそうなので、そこまで足を伸ばすことはなかった。
しかし、偶然に著者の顔を知っている人にこの遊歩道で出会った。そこで耳にしたのが「土アケビ」である。名前は地面に実るアケビから来ている。春に黄色の花が咲き、秋に赤い実がなるラン科の花である。これは秋に入ってからの話で、瑞穂の池付近には土アケビの自生地があって、遊歩道の脇にも土アケビの赤い実が見られだろう、と聞いて瑞穂の池まで遊歩道の瑞穂線を辿ることになった。
写真のように紅葉が見ごろで、上の方は紅葉に、下の道端には土アケビを探す視線を泳がせながら歩いて行く。真剣に探したせいもあって、写真のように赤いふうせん状の土アケビの実をみつけることができた。でも、人が通る道縁にあると、珍しい植物なら不心得者が根こそぎもって行ってしまう恐れもあるのではないかと心配でもあった。
瑞穂の池にはその後、雪のある春先、緑で覆われた夏、と四季折々の姿を見に行っている。秋に見た土アケビの花をみつけようと春から夏にかけて歩いたこともあれけれど、黄色の花の方を見つけることは出来なかった。秋と夏では辺りの様子が変わっていて、何か目印でもつけておくべきだったと思ったけれど、後の祭りのようなところがあった。
この池の正面は草地になっていて東屋がある。池の正面には写真のように瑞穂の池の看板があり、その横にはこの池の簡単な説明板がある。それによると、瑞穂の池は一九九一年(昭和三年)にこの地に入植した白石第一土功組合がかんがい用水のため池として築いており、一九七三年(昭和四十八年)からは防火用池として北海道が管理するようになっている。
春先に雪のある頃の瑞穂の池はどうなっているかと、野幌森林公園の札幌市側にある「北海道開拓の村」に入って、ここから江別市側にある瑞穂の池まで雪道を辿ったこともある。この時は瑞穂の池は雪に覆われていて、瑞穂の池記念碑の標識の向うの雪原の下に池があるとは、初めて訪れる人には想像もつかないだろと思われる風景だった。
2006年10月19日
樺太記念碑
小林多喜二の文学碑を見ようと出かけた小樽旭展望台で最初に目にしたものがこの樺太記念碑である。樺太記念碑の上部にある石のレプリカは、大日本帝国の国境に置かれた礎石を模している。当時の日本帝国に対峙したプロレタリア文学を代表する小林多喜二の文学碑の近くに、この帝国国境の礎石の碑があるのを見ると、互いに居心地が悪そうである、と感じるのはよそ者の著者の思い過ごしか。
緑青で文字が遠目にははっきりしない碑文には、「樺太を偲ぶ」の表題で、望郷の地樺太に寄せる思いが記されていて、碑の建立された年が一九七三年(昭和四十八年)であるのを碑面から知ることができる。碑文に記載されているように、故郷であった樺太から引き上げてから二十年以上が過ぎ、さらに碑が建立されてから三十余年が経過していて、樺太は歴史に呑み込まれた名前になっている。
樺太記念碑の国境の礎石は菊の御紋に「日本国」と刻印されている。この礎石の模造品は他のところでも目にしている。札幌の赤レンガ庁舎の北海道庁旧本庁舎二階の樺太関係資料館にも国境礎石のレプリカが、礎石を設置している様子の写真と一緒に展示されている。このレプリカの表面には「大日本帝國」の文字が刻まれていて、旭展望台の記念碑にあるものは「大」と「帝國」の文字が消えている。七十年代では未だ何かを慮ってこれらの文字を消したのかな、と思っている。
札幌の円山公園内の開拓神社の隣に、やはりこの樺太の国境の礎石の模造品が置かれてある。写真でははっきりしないけれど、こちらも「大日本帝國」の文字があるのを認めることができる。旭展望台の樺太記念碑の碑文は望郷の思いが綴られているだけで、史実にほとんど触れていないのは、「大日本帝國」を「日本国」にしている事情と符号しているのかと思ったりしている。
余談になるけれど、著者は以前「中国パソコンの旅」(エム・アイ・エー、一九八七年)を上梓したことがある。名もない出版社がこの本の表紙裏の挿絵として日本と中国の国土の簡単な地図を載せた。印刷された本のその地図には樺太(現在のサハリン)の中央に国境線が目立つように描かれていたのを見た時には仰天した。幸いというべきか、この本は重版もなく初版で終わり、どこからもクレームは来なかったけれど、何かの時に思い出す自分のなかの歴史の一こまではある。
2006年10月15日
石狩紅葉山49号遺跡
石狩浜の番屋の湯のパーキング場で、道路を隔てたところに「いしかり砂丘の風資料館」と書かれた建物が目についた。どんなところかと入館料を払って中に入ってみる。石狩の海、川、河口をテーマにした自然や歴史の展示が主体の資料館である。一階にはチョウザメの剥製や鯨の化石なんかが展示されている。手作り缶詰工場のコーナーがあって、各自のお宝を有料で缶詰に出来る器具がある。
二階に上がると石狩紅葉山49号遺跡の展示場になっている。この遺跡は発寒川に遊水地をつくろうと土地の調査をしていると、一九九七年に遺物や遺構が発見され、その発掘調査の結果の一部がパネル等で解説されている。古いものは縄文中期のもので、それ以後のものも出土している。
石器や木器が並べられていて、一階に展示されていた舟形容器は、ちょうど鮭が一匹入るように木をくり抜いた舟形の容器である。縄文の古代から、人々が石狩川に上る鮭を捕獲して生活していた証拠の品である。湿気のある粘土質の地中にあったので、木器も風化されずに現代にその姿を現すことになったのだろう。
発掘作業は一段落で、現在は出土品の整理と調査を行っているようだ。館内のボランティアの係の人に発掘現場はどうなっているのか尋ねてみた。現場に行っても何も無いとのことである。しかし、この資料館から札幌に戻る道すがらでもあるので、地図に場所を記してもらい寄っていくことにする。
紅葉山は花川の発寒川沿いにあり、花川通に接した紅南公園横を走る花川4号線と発寒川の河川敷一帯である。遺跡発掘時に利用されたと思われる簡易アスファルトの小道が残されていて、空地が広がり、あちらこちら雑草が生い茂っているだけである。遺跡の案内板に類したものは一切なく、ここが大規模な発掘調査が行われた地であるとは思えない。ここに鮭を捕らえる細工の水中に立てる柵の「エリ」なんかも埋まっていたのかと、誰も通りそうもないアスファルト道を歩きながら想像してみた。
わずかにここが発掘の現場であったと知るのは、遊水地の整備を説明した看板にある写真である。発掘当時の写真が、確かにこの地が遺跡の地であることを教えてくれている。
2006年10月14日
龍徳寺の日本一の木魚
小樽の龍徳寺に日本一大きな木魚があるという情報を得て実物を見に行くことにする。札幌から国道5号線で小樽に向かい、JR小樽築港駅を少し過ぎ小樽の市街地に入る国道沿いに大きな寺の屋根が見えてくる。このお寺が目指す曹洞宗龍徳寺である。このお寺は一八五七年(安政四年)創建というから道内では古刹である。
境内は駐車場が広く取られていて、行事もないせいか当方の車の他には一台あるきりのところで、他の車に気を配る必要もなく止める。駐車場のある境内には大きな銀杏の木が二本あり、夫婦の銀杏と呼ばれている。寺の建屋には自由に出入りできるようになっているので、日本一の木魚を探して本殿の仏間に歩を進める。仏間の脇の座布団の上に鎮座ましまして、袈裟のような覆いを被って木魚のお姿があった。覆いを取って写真撮影である。
この木魚は檀家からの寄進で九州産の楠で作られていている。直径一・三m、高さ一m、重さ三百三十kgで、木魚を叩く「バイ」も長さ一m、重さ五kgもある。叩いたらどんな音がするのだろうか。
木魚の作り方は木にスリットと空洞を作り、これを叩くと空洞内部で反響して音が出る。よく木魚の音として「ポクポク」という擬音が用いられるけれど、空洞の木を叩いた音に近いのは間違いない。木魚を楽器とみればスリットドラムに分類されるだろう。
しかし、木魚の内をくりぬいて空洞を作るのはどうして行うのだろうか。インターネットで木魚制作工房のサイトにアクセスすると、スリット部分から特殊なノミをいれて中を削りだしていくらしい。職人技である。でも、木魚を作る職人も少なくなって来ているそうで、これも時代の流れなのだろう。
そもそも木魚は寺で使われている魚の形をした魚板(魚鼓)から発祥しているといわれている。木魚には魚の形がデザインされたりする。何で魚に拘るかというと、魚は日夜を問わず目を閉じないので、日夜修行に精進せよという意味を魚板や木魚に込めていることに由来するそうである。確かに、木魚を叩いてその音で眠気を追い払う物理的な効果もありそうだ。
余談ながら、多くの動物は目を閉じて眠る。魚のように目を開けて眠ると、他の動物に眠っていることを外見で悟られない。この方が身を守るのによくて、進化の過程でどうして眠るときに目を閉じるようになったのか。両目とも閉じないで、片目だけでも開けて眠っているとか…
2006年10月13日
2007年パンダカレンダー販売
札幌100秘境とは関係ありません。しかし、このカレンダーを販売しなければならない状況なので、昨夕(10月12日)の道新夕刊に掲載された2007年のパンダカレンダーの記事を載せておきます。送料込みで1500円です。郵送先住所をお知らせいただくとカレンダーを郵送しますので、同封の口座に振込みか現金郵送していただきます。購入方よろしくお願いします。メールでのご注文でも結構です。
2006年10月12日
伊藤整文学碑
この文学碑は見に行くつもりがあって碑の前に立った訳ではない。国道5号線を車で小樽から余市方面に走っていたら、塩谷のあたりで道路脇にこの文学碑の案内が目に留まった。すぐに車の方向を変えて、上り坂のわき道に入って少し進むと、この文学碑の前に出た。この文学碑と対面した状況はこのようなものであった。
碑は写真のように背の高いもので、高さは五mもある。上部に安山岩に「伊藤整文学碑」の大文字が刻まれ、下部に伊藤整の「海の捨児」からの文章が掘り込まれている。場所は小樽市塩谷二丁目、ゴロダの丘であると後で知る。前日から風が強かったせいもあり、ここからは白く波しぶきを上げる塩谷の海が眼前に広がって見える。
この文学碑は市街地から離れていて、さてこの文学碑を目当てにここを訪れる人はどのくらい居るのだろうか。偶然にこの碑の場所に来て、辺りに車も人も見かけなかった。碑文にある「私は浪の音を守唄にして眠る 騒がしく 絶間なく」の波の音はすぐ下の国道を走る車の音に消されてしまっている。しかし、日高の海岸に近いところに住んだ経験のある著者には、浜に寄せては返す波の「騒がしく 絶間なく」の感じは分かる。
伊藤整は一九〇五年(明治三十八年)北海道松前郡白神村で生まれ、塩谷に移り住み庁立小樽中学校、小樽高等商学校と進んでいる。小樽高商の一年先輩には小林多喜二がいる。小樽を代表する二人の文学者が、重なって同じ学校の学生だったとは奇縁というべきか。なお、小林多喜二の文学碑は小樽市街の旭展望台にある。
この世に知られた二人の文学者のせいか、小樽は文学者出身の街というイメージが強い。小樽は市や市民がこのイメージを補強しようとして、地方都市では珍しい「伊藤整文学賞」を設けている。活動の中心となる「伊藤整文学賞の会」の会長は小樽市長で、代表幹事は企業家で著者もよく知った方である。この企業家とはつい最近、小樽で夕食を一緒にして、小樽秘境100選の企画を話したけれど、そのときは伊藤整の文学碑を秘境対象にする考えは思いもつかなかった。
2006年10月11日
地鎮山環状列石
小樽市の忍路(おしょろ)に環状列石の遺跡があるというので見に行くことにする。地図に国道5号線沿いに忍路環状列石の位置が記されていて、簡単にたどりつけるだろうと安易に考えて出かける。小樽から余市に向かって左側(山側)に入る道を探すのだが、これが見つからず蘭島町まで行ってしまう。
蘭島町で道道1092号線に入り、地図にフルーツ街道と記されている道に折れ小樽方向に逆戻りである。途中道路脇に環状列石の看板をみつけて、農家の庭先に車を止める。しかし、農家のビニールハウスは目に入るけれど、遺跡らしきものはない。山林に向かって細い道が続いているのでこれを進むと、環状列石の標識が目に付き、階段が続いているので登ってみる。頂上と思われるところに、鎖で囲われた環状列石が現れた。
この場所は地鎮山の山頂で、山頂といっても高さ五十mの雑木林の丘である。環状列石は縄文時代後期のもので、高さ一mほどの石を十二個楕円形状に並べている。長径十m、短径八mほどの楕円形の区画を墓にしたものであると考えられている。発掘時にこの楕円形内に縦横二m、深さ一mの四角い墓穴が見つかっている。墓穴が一つしかないため、首長の個人的な墓ではないかと推測されている。
地表の丸みを帯びた自然石のストーンサークルは古代人の造形物の感じがする。これに対して、きちんと正方形に切り取られた石の墓穴は、石に加工技術が施されていて、ストーンサークルとちぐはぐな対比を見せている。落ち葉が底に重なっているこの墓穴には何が詰まっていたのだろうか。
これで忍路の環状列石の見物は終わったものと合点して帰宅した。このレポートを書く段になってインターネットで確認すると、忍路の環状列石とは国の指定史跡のもっと規模の大きなものであるのを知った。見て来た地鎮山環状列石の近くにあったらしく、地図に記されていたものは国定史跡の方で、それを目指して別のものを見て来てことになる。さて、また同じ場所に行って環状列石を捜すことになるのかどうか…
2006年10月09日
バッタ塚と新川河口
新川河口近くにバッタ塚があるという。バッタ塚は、開拓時代に起きた大災害のトノサマバッタの襲来に対処した跡で、砂地にバッタの幼虫や成虫を埋めたところであると知っていたので見に行くことにする。
直線状に伸びる人工の川である新川沿いの新川通を、小樽の大浜海岸に向かって車を走らせ、各種廃棄物の処理場が広がる手稲区山口に入る。新川と濁川の合流点付近にある札幌市のスラッジセンターの敷地に接したバッタ塚に、途中道を間違えながらたどり着く。
バッタ塚は小さなパーキング場に隣接した広場の柵外にある。ススキと背の高い雑草に囲まれた石碑の表面にはバッタ塚と彫られていて、写真のように実物大の雌雄の成虫と卵のうが描かれたパネルもはめ込まれている。近くにはバッタ塚のいわれの説明板もある。
その説明によれば、トノサマバッタは通常は空を飛ばないのに、異常発生して密度が高くなると生理的な変化をもたらし、大群で空を飛ぶ飛蝗化が起きる。一八八〇年(明治十三年)十勝に発生し、日高、胆振、後志、渡島は次々に飛蝗化したトノサマバッタの襲来を受け、一八八五年(明治十八年)まで北海道はその被害を蒙った。このバッタの大群が海を飛び越え本州までゆかないように、一八八三年(明治十六年)バッタの幼虫や成虫を石狩の浜の砂地に砂を二十五cmの畝状にして埋め、その畝がかって百列ほどあった。
トノサマバッタによる大災害から約百年建った一九七八年(昭和五十三年)にバッタを埋めた畝もほとんど無くなっているこの砂浜の地を札幌市の指定史跡にした。虫害の歴史上で重要性を考慮してバッタ塚を建てている。しかし、ここまでバッタ塚を見に来る人はほとんどいないのではないだろうか。
このバッタ塚から少し行くと、新川が石狩湾に注ぐ河口がある。ここはもう小樽市で、大浜海岸のおたるドリームビーチのはずれにある。夏には海水浴客で賑わう浜辺に人は見当たらない。石狩湾の向こう側には小樽の港とさらに積丹半島の山並みが見え、シーズンを過ぎた浜辺にかもめだけが群れ、波が寄せていた。
2006年10月08日
石狩-無辜の民
石狩の浜に本郷新の無辜の民と名づけられたブロンズ像があるとかねてから聞いていたので見に行くことにする。海水浴客や秋の鮭祭りのイベントの時には自動車で満杯になる駐車場に車も見当たらないのを横目で見ながら、石狩の浜に延びる道路を車でゆっくり走る。殺風景な浜辺の風景の中に案内標識がポツンと立っている。「本郷新制作ブロンズ像 石狩―無辜(むこ)の民」の文字が読み取れる。
車を降りて像に近づいて見る。像は、上半身にしては不均整な部分が布で隠れるまで巻かれたもので、布からかろうじて出た片手と両足が何かを訴えように伸びたフォルムが台座の上に横になっている。台座にはめ込まれたプレートには「石狩 開拓者慰霊碑」とあるので、鎮魂のブロンズ像である。
本郷新は一九〇五年に生まれ、一九八〇年に没している。二年前に本郷新生誕百年の行事もあった。北海道を代表する彫刻家で、札幌市内に多くの作品を見ることができる。札幌市宮の森には本郷新記念館もある。一九七〇年(昭和四十五年)から無辜の民の連作が始まり、十五点の作品が生み出されているので、本郷の晩年近くの作品群となっている。この石狩の浜にある作品は、箱根森彫刻の美術館主催の第二回現代国際彫刻展に出品されたものである。
彫刻の意味するものは、生きている状況で降りかかってくる諸々の制約で身動きのできなくなった人間の、もがきながら生を終えた姿を現しており(想像ではあるけれど)、開拓者慰霊の意味と重ねると、自然の脅威に遭遇してどうすることもできず苦闘のうちに斃れていった開拓者達を表現していると思える。石狩浜の灯台のロマンチックな思いを引きずってこの像に出くわすと、モノクロ写真の白黒を反転させたような感じになる。
見た目には不細工なこのブロンズ像を遠景にして、石狩の浜に赤い実をつけて冬の到来を待っているかのような浜茄子を前景にした写真を撮ってみる。すすきも生い茂っていて、秋の人の訪れない海浜の荒涼感が漂う。この荒涼感を浜茄子の実の赤色が和らげていると、芸術的なブロンズ像を鑑賞した余韻で写真の自己評価をしたけれど、普通の写真と評されるとそうかも知れない。
2006年10月07日
道路地図を見ていると、国道337号線の生振(おやふる)バイパスが石狩川を横切って札幌から当別町に入る。その辺りの石狩川に沿った土手道に「開拓百年之碑」がポツンと記されている。辺りには何もなさそうで、これは秘境候補と見に行くことにする。
この碑は生振バイパスを挟んで、「石狩川」文学碑と反対側にある。しかし、現場ではこの土手道に出るのは通行止があったりして、地図通りには進めない。何とか国道下のトンネルや土手沿いの細い道を通って、お目当ての開拓百年記念碑までたどり着く。記念碑は農道の突き当たりに農地を背にひっそりと建っている。
碑文に書かれた美登江(ビトエ)の史実を振り返ってみる。この美登江に入植者が住み着いたのは一八八二年(明治十五年)のことで、本格的に開拓が始まり一八九八年(明治三十一年)には入植者の数は百十戸に達している。しかし、この年に石狩川の大洪水があり、その後も石狩川の氾濫が続き、離農者が続出して一九〇七年(明治四十年)には六十九戸までに減っている。
昭和初期に石狩川の大改修が行われ、美登江地区が直線状になった新しい石狩川で分離され農地が減ったことと引き換えに、川の氾濫が治まり、現在の実り多い農地に生まれ変わって来ている。しかし、一九七〇年(昭和四十五年)に始まる国の稲作減反政策で水田は減り、三十六戸の農家までになった。一九八二年(昭和五十七年)にこの地への入植百年を記念してこの碑が建てられている。
碑の横には馬頭観音碑も並んで建っている。これらの碑を囲むように農地と農家があるだけである。稲穂が色づいていて、この時期米の収穫を迎えているのが分かる。最近の北海道の米の味は昔に比べると格段に美味しくなっている。石狩川の水を制御し、農地を拓いて、石狩川流域を日本でも有数の米どころにした果実は、先人の北海道開拓により得られたものであることをこの碑と碑文から改めて確認することになる。
石狩川の改修工事によりここら辺石狩川は真っ直ぐ流れていて、石狩川の増水に備えた川水の制御の仕掛けとしてのひ門が川に設けられている。写真のひ門は南三号ひ門の名盤が取り付けられていた。
2006年10月05日
千古園
江別RNTパークの付近あたりで道道江別恵庭線(道道46号線)に出ようとすると、道路の向こう側にある碑が目に入る。江別恵庭線を横断してこの碑の近くで駐車して、大木の生い茂る場所に入ってみる。
千古園の石碑が建っていて、近くに説明板があり、この場所が江別市指定文化財第一号の史跡であることを知る。この場所は、新潟県で一八八六年(明治十九年)に結成され、江別市の発展に貢献した民間の開拓団体「北越殖民社」の二代目社長関矢孫左衛門の屋敷の一部であった。最初十七戸の入植であったものが、一八九〇年(明治二十三年)になると四百名を超える入植者がこの野幌の地で本格的な開拓を行うようになっている。
野幌郡に入植した開拓民の苦労を伝えるため、「留魂碑」や茶室「道庵」が建てられ、公園として整備されて現在に至っている。千古園の名前は前記の関矢翁が碑の建立に際して、「千古空留一片石」と口吟したことに由来しているらしい。
この庭園の見所は、園内にあるキタコブシやブナの大木であろう。百年を越す樹齢の巨木が葉を茂らせ、公園内は薄暗い。推定樹齢百八十年というキタコブシは江別市内でも最も古木で大木である説明があるけれど、雷か大風のせいか樹の上部が無くなっている。
樹高二十五mもあるブナの大木は、百二十年の推定樹齢で、豊かな枝葉を茂らせている。開拓以前には北海道にもブナの森があったのだろうけれど、どんどん無くなってしまった。この園内に見ることができるブナの巨木が生い茂っていただろうこの地が、百五十年も経てば一面の畑に変わり、畑地を突き抜けるようにアスファルトの道路が延びて、自動車がひっきりなしに走り、その先には江別の市街地が広がることになろうとは、人間の営みが自然を変えていく激しさを感じることができる。
園内には小さな石の地蔵が並んでいる。新しいのや古いのが混ざっているようである。地蔵にはそれぞれ番号がついていて、園内で地蔵巡りをするように置かれたにかな、と思ってもみるけれど、これらの地蔵の由来については分からなかった。
2006年10月04日
石狩尚古社資料館
人通りの無い弁天歴史公園をふらふら散策していると、公園事務所の係りと思しき女性が、近くに私設の資料館があると連れて行ってくれる。持ち主(中島勝久氏)の家に伝わる資料の数々を無料で見せてもらえる資料館だけあって受付はいない。案内した女性が館主の中島氏を探して来てくれ、館主が施錠をはずして内に入れてもらう。小さな館内には秘境空間が広がっている。
ここで「石狩尚古社」とは俳句結社の名前であり、石狩のこの地に一八五六年(安政三年)に創立されたといわれている。鮭鱒業で繁栄を極めた石狩浜で呉服屋を営んだ中島家の当主が俳句を嗜んで、この結社を介して全国の俳人との交流も盛んに行われていた。俳句に関わる活動の資料を核にして、中島勝人・勝久父子が私費をもって一九八九年(平成元年)に開設した文学資料館であると、A4一枚のプリントに説明があった。
上記の説明にあるように、色々な俳人の色紙や俳句集が並べてある。秩父事件の首謀者として追われていた井上伝蔵がこの地で伊藤房次郎と名前を変えて句を作っていたことの傍証の資料なんかも目につく。「秩父軍会計長井上伝蔵です」といった手書きの説明の付箋がついていて、いかにも私設資料館の趣である。
資料館内には、呉服屋の中島家に伝わる商売上の品々や日常用品の類が所狭しと置かれている。商売の呉服屋の看板には、和服姿の娘がバイオリンを手に演奏している姿は、当時はハイカラであったのだろうけれど、いかにも時代を遡るといった感じである。
資料館の二階には使用したものや未使用の食器類があり、目利きならその価値も推定できるところ、著者にはまるっきりこの方面の知識がないので、古くて価値がありそうだ、程度の感想しか出てこない。
石狩の町には大相撲の地方巡業もあって、相撲取りの番付が書かれた看板も室内にあり、「石狩 吉葉山潤之輔」という相撲取りの名前が書かれている。横綱吉葉山のことで、この相撲取りは石狩の鰊業の網本の三男として生まれている。悪性虫垂炎を治してくれた吉葉博士の名前を取って四股名にしている。著者が小学生の頃に横綱に昇進したけれど、弱い横綱だった。
そういえば、著者の育った日高の田舎町にも大相撲の巡業が来て、町の大イベントであった記憶がよみがえって来る。
2006年10月02日
楽山居と水琴窟
夏の海水浴シーズンや秋の鮭祭りの頃に石狩浜の弁天歴史公園は人で賑わっていて、これらの行楽を楽しむ人が乗って来る車で、公園近くのパーキング場は混雑を極める。こんな時にこの公園を見ていると、ここは秘境からほど遠い。
しかし、弁天歴史公園にある写真の句碑に刻まれた「俤(おもかげ)の 目にちらつくや たま祭り」が、秩父事件の首謀者の一人の井上伝蔵の句で、井上は伊藤房次郎と名前を変えてこの地に潜伏して、俳句の結社「石狩尚古社」に参加していたと知ると、俳句を介してのこの地の秘境部分が顔を出す。秩父事件は農民蜂起事件で、困民党軍会計長だった井上伝蔵は、事件鎮圧後の欠席裁判で死刑の判決を受けている。
この弁天歴史公園内には一九三七年(昭和十二年)に建築当時の姿に再生された「楽山居」という和風の建築物がある。建物の名前は前述の石狩尚古社の最後の社主である病院院長鈴木信三の俳号からつけられていて、ここで句会が頻繁に行われていたようである。井上伝蔵がこの楽山居に集った参加者の一人であったのかどうかは知らない。
楽山居の建物は凝った造りで、絵をあしらった欄間、精巧な模様の入った障子、廊下のガラス戸の向こうには石庭が広がっている。弁天歴史公園にはガイドが常駐しているのだが、この日は都合が悪くて出勤していないとのことである。公園の受付とおぼしき女性が、客が我々だけであることもあって手持ち無沙汰なせいもあり、丁寧に案内してくれる。
石庭の飛び石をつたって案内されたところに写真の蹲(つくばい)があって、柄杓で水を掬い石が積んである場所にかける。少し時間が経つと琴を爪弾いたような音がする。金属を叩いた音と表現が近いかも知れない。これは以前聞いていた「水琴窟」である。こんなところで水琴窟と初対面とは驚いた。
水琴窟の原理は水滴の落ちる音を反響させたものである。穴を空けた甕を、穴が上になるように逆さまに地中に埋め、その上に小石などを敷き詰め、注がれた水がこの穴から空洞の甕の下に落ちるようにする。この時、落ちる水滴が下に溜まった水に当たり音を発し、この音が空の甕に反響した音が地中から聞こえてくるのである。
江戸時代には庭園に設置されたものがすたれ、近年になって再発見されたいきさつで設置するところが増えて来た。水琴窟設置を手がける業者もあって、色々な形の水琴窟がインターネットでも見ることができる。しかし、それほど多くの実物を見ることはない仕掛けであることは確かで、楽山居の庭で秘境の音を聞いたような気分に浸ることができた。
2006年10月01日
「石狩川」文学碑
「石狩川」の作者本庄睦男は一九〇五年(明治三十八年)当別町太美ビトエ番外地で生まれている。父は佐賀藩士で当別において開拓に従事している。「石狩川」は当別に入植した伊達邦直家中の北海道開拓の苦闘を描いており、一九三九年(昭和十四年)に刊行された。本庄睦男はこの本が出た二ヶ月後に東京の自宅で死去している。享年三十五歳であった。
「石狩川」は読んではいないけれど、石狩川の土手にあるという文学碑を見にゆきたくなった。文学碑の位置が示された地図がなかったので、インターネットに出ていた札幌から当別町に行く道が石狩川を横切る辺りの土手道という情報を頼りに、伏古拓北通から国道337号線に入り、この国道が石狩川を横切る札幌大橋を渡る。橋の上からインターネットでみた文学碑を目にすることができ、それを目指して土手道に入り、文学碑の前で車を留めて碑に近づいてみる。
文学碑は石の塔の上に、開拓時代の家屋を象徴していると思われる形が乗っている塔部分と「文学碑 石狩川」のプレートがはめ込まれた低い部分とから成っている。開拓時代を象徴して、木を燃やして火を焚いているのを模した造形もある。文学碑の傍には説明板があり、この文学碑が一九六〇年(昭和三十九年)建立されたと書かれている。この年に著者は大学に入学している。
この場所へのアクセスの悪さか、それほど知られていない文学碑のせいか、ここは訪れる人も居ない。文学碑の場所から写真のように石狩川とその河川敷が一望に出来る。写真に写っている橋が札幌大橋である。この橋を通る国道は、石狩市から札幌市の北区の縁のあいの里をかすめて当別町につながる主要な道であり、交通量が多いところである。車が途切れるところを狙って写真を撮る。
その後、本庄睦男(の写真)に思いがけないところで出会うことになった。石狩市の石狩川河口の近くの弁天町で偶然入った石狩尚古社にこの作家の写真が飾ってあった。一九三七年(昭和十二年)「石狩川」の取材に石狩八幡町に取材に来た時のものと説明があった。この取材旅行の二年後に「石狩川」を上梓し、あまり日を置かずして亡くなる運命にあるとは思えない顔がそこに写っている。