2006年10月04日
石狩尚古社資料館
人通りの無い弁天歴史公園をふらふら散策していると、公園事務所の係りと思しき女性が、近くに私設の資料館があると連れて行ってくれる。持ち主(中島勝久氏)の家に伝わる資料の数々を無料で見せてもらえる資料館だけあって受付はいない。案内した女性が館主の中島氏を探して来てくれ、館主が施錠をはずして内に入れてもらう。小さな館内には秘境空間が広がっている。
ここで「石狩尚古社」とは俳句結社の名前であり、石狩のこの地に一八五六年(安政三年)に創立されたといわれている。鮭鱒業で繁栄を極めた石狩浜で呉服屋を営んだ中島家の当主が俳句を嗜んで、この結社を介して全国の俳人との交流も盛んに行われていた。俳句に関わる活動の資料を核にして、中島勝人・勝久父子が私費をもって一九八九年(平成元年)に開設した文学資料館であると、A4一枚のプリントに説明があった。
上記の説明にあるように、色々な俳人の色紙や俳句集が並べてある。秩父事件の首謀者として追われていた井上伝蔵がこの地で伊藤房次郎と名前を変えて句を作っていたことの傍証の資料なんかも目につく。「秩父軍会計長井上伝蔵です」といった手書きの説明の付箋がついていて、いかにも私設資料館の趣である。
資料館内には、呉服屋の中島家に伝わる商売上の品々や日常用品の類が所狭しと置かれている。商売の呉服屋の看板には、和服姿の娘がバイオリンを手に演奏している姿は、当時はハイカラであったのだろうけれど、いかにも時代を遡るといった感じである。
資料館の二階には使用したものや未使用の食器類があり、目利きならその価値も推定できるところ、著者にはまるっきりこの方面の知識がないので、古くて価値がありそうだ、程度の感想しか出てこない。
石狩の町には大相撲の地方巡業もあって、相撲取りの番付が書かれた看板も室内にあり、「石狩 吉葉山潤之輔」という相撲取りの名前が書かれている。横綱吉葉山のことで、この相撲取りは石狩の鰊業の網本の三男として生まれている。悪性虫垂炎を治してくれた吉葉博士の名前を取って四股名にしている。著者が小学生の頃に横綱に昇進したけれど、弱い横綱だった。
そういえば、著者の育った日高の田舎町にも大相撲の巡業が来て、町の大イベントであった記憶がよみがえって来る。
投稿者 esra : 2006年10月04日 09:15