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2006年11月15日
塩谷漁港
港には港格というのがあると知る。重要湾港、地方湾港、さらに第一種、第二種等々とあり、塩谷漁港の港格は第一種とインターネットでみつけた。港格がどのようにして定められるのかについての知識は全然持ち合わせていないけれど、港格の分類から類推するに、そこそこな漁港らしい。
しかし、実際に見た塩谷漁港は小さな漁港であった。国道5号線を札幌に向かって走っていて、塩谷トンネルを抜けたあたりでポンマイ岬方向へ寄り道で、夏場であれば海水浴客で混んでいるだろう塩谷の浜を通りすぎる。道の終点に塩谷の漁港があった。
防波堤とコンクリートのブロックを積んで塩谷海岸の一部を囲って漁港が造られている。天気が良くて防波堤では釣り人がのんびりとチカ釣りを楽しんでいる。釣りは、釣っている当人もそれを傍で見ている方も時間を忘れる。特に海釣りは、川釣りのように流れに合わせて竿をせわしなく動かすことが少ないので、釣り糸をたれたまま無言の行をしているようなところがある。
この漁港はポンマイ岬の付け根の辺りに位置し、写真に写っている港内の崖がポンマイ岬へとつながっている。岬へ道が続いているかと、港から山道を辿ってみたが、途中で自動車の通れる道は途絶えていた。機会があれば徒歩でポンマイ岬まで行ってみようかと思ったけれど、さて実現することやら。
別の日に伊藤整の文学碑のあるゴロダの丘から塩谷漁港を遠望したことがある。この時は塩谷の海は少し荒れていて、海岸に白い波が押し寄せていた。漁港内は防波堤で波は消えているように見えたが、それで漁港内にはうねりはあっただろう。漁港の背景のポンマイ岬がゴロダの丘の高みからはよく見える。
冬になれば、日本海からの冷たい風と波がこの漁港に押し寄せ、漁港の風景は一変するだろう。冬の季節に、この漁港の写真を撮りにくるだけの元気はあるだろうかと、もうすぐ傍まで来ている北海道の冬を思いながら漁港を後にした。
2006年11月13日
忍路神社
忍路(オショロ)の環状列石の遺跡が載っている観光案内図に、国道5号線を挟んで環状列石と反対側になる海側の忍路湾にこの神社が記されている。環状列石を見物した後で、この神社にも行ってみることにする。国道5号線が海岸沿いに走り忍路トンネルとなるその上を横切る道を忍路湾の方に向かって自動車で降りていく。途中、海に向かって左側には竜ヶ岬、右側には塩谷の港あたりの景色を眺めることができ、絶景である。
神社は忍路湾の近くにあり、鳥居と神社名が書かれた門柱は写真のように新しいものである。境内はロープで立ち入り禁止のようになっているのは改修作業でも行われる予定なのかも知れない。鳥居から少し離れて本殿があり、本殿横に稲荷神社がある。
後でインターネットで調べると、この神社の由来は古く、一六七四年の神社誘致の勧請に端を発していて、一九八九年(元禄二年)には社殿が創建されている。一九七五年(明治八年)には郷社となり、一九八四年に蝦夷大国主神社であったものが忍路神社と改称されている。その後社殿の焼失、再建、忍路稲荷神社を合祀するなどして一九二〇年(大正九年)現在地に本殿を移転している。
本殿は屋根が緑色である一方、横にある稲荷神社の屋根が赤く、そのコントラストが印象的であった。本殿も稲荷社も造りは手が込んでいるようで、写真に写っているように龍の木彫りが正面の鴨居のところにあった。
本殿の両脇には神社の造りの典型的パターンで阿吽の狛犬が居たのに対して、稲荷社の方の両脇には写真の狐が控えていた。稲荷神社なのできつねの石像があっても不思議ではないのだけれど、狐の石像はちょっと珍しかった。ただ、このきつねの尻尾が写真にも写っているように、折れて下にころがっていた。手入れが行き届いておらず、少々荒れた感じのする神社であった。
神社のすぐ傍は忍路湾になっていて、神社から少し歩くと忍路港に出る。忍路湾の外には余市湾がつながっていて、湾の中にさらに湾があると言ってもよい。
2006年11月11日
忍路環状列石
一ヶ月程前に忍路にある環状列石を見に行って、地鎮山環状列石を見てこれが忍路の環状列石と思い込んでいた。ところが、その後国指定史跡としての環状列石が別にあることを知り、再度国指定史跡の方を見に行くことにする。今回は前回とは逆に国道5号線からJR塩谷駅につながる小樽環状線からフルーツ街道に出て蘭島の方向に走り、途中で史跡の案内表示をみつけ、脇道に入って車を止める。ここは地鎮山環状列石のすぐ傍にあり、場所としては忍路二丁目である。どうして前回この場所が目につかなかったと不思議である。
史跡は写真の縦看板から続く小道を後は2百mぐらい歩くと道の脇に広がって見えて来る。石柱と鎖で囲まれて立ち入り禁止の表示が出ている。この史跡の管理者である小樽市が建てた説明板もあるので読んでみる。
この環状列石が造られた時代はおよそ三千五百年前の縄文時代後期に遡る。低い山のせいか道路地図には記載が見当たらないけれど、インターネットには説明のあった三笠山の山麓のゆるやかな斜面を平らに造成して造られている。南北三十三m、東西二十二mの広さの楕円形上の石の配置で、墓地として死者を弔う場所として利用されたと推定されている。地鎮山環状列石の場合墓穴に相当するものがあったのに対して、それに相当するものは楕円形の列石内には見当たらない。
この列石に使用された石がどこから運ばれたのかは特定できていないらしい。余市町のシパリ岬から運ばれたとの推測もある。列石は家屋の土台石や庭石として運び出された受難の歴史もあって、発見当時と現状は異なっているとのことである。万里の長城のレンガが、家をつくるため持ち去られ、史跡が破壊された話が頭をよぎる。
国内では最大級この列石は一九六一年(昭和三十六年)に国指定史跡となっている。国指定というと大げさに響くけれど、周りには農家があって、農家のちょっとした空地の雰囲気である。
秋も深まって、周りの山々の落葉樹は葉が落ちて、自然は冬の到来に備えている。人間の方も同様で、付近では人が立ち働いていて、農家のビニールハウスも鉄骨だけにされ、冬の準備が急ピッチで進められている。もうすぐするとこの史跡も深い雪の下に埋もれることになる。
2006年11月08日
JR塩谷駅とSL
JR函館本線の小樽駅の上りの次の駅は塩谷駅である。地図で見ても、塩谷の街から少し山側に位置するこの駅は相当小さいと見当がつくので、秘境候補であろうと日曜日の午前中に見にゆくことにする。塩谷の近くで国道5号線から小樽環状線に入り、塩谷駅に着く。辺りは紅葉も終わりかけていて、葉の落ちた木々が山間にある駅舎の目の前にある。
塩谷駅は無人駅で駅舎内には何も無い。列車を待つ客なんかいないだろうと思っていると、意外なことにプラットフォームに人が四、五人ほど立っている。こんな小さな駅でも利用者がいるのだと、感心した。しかし、客の様子が列車待ちの乗客の雰囲気でもない。皆カメラを手にして立ちん坊である。著者と同じく、秘境探検のノリでこの無人駅を撮影に来ていて、列車待ちなのか、それなら当方も無人駅を通過する列車の写真でも撮っておこうと待つことにする。
待つ間に屋根付跨線橋を渡って、反対側のプラットフォームから駅舎や跨線橋の写真を撮る。跨線橋の背景に写っている小樽環状線の道路を利用して小樽でも札幌でも行く方が便利だろうから、一日何人ぐらいこのJR駅を利用するのだろうか、などと考えながら時間をつぶす待ちん坊である。
時間が過ぎて、待っていた列車が駅の構内を通過して行ったけれど、それはなんとSLであった。予想もしていなかったのでこれには驚いた。停車しないで走り去るSLの写真を二、三枚慌てて撮った後で、近くに居た人に聞いてみた。答えによると、土、日に観光用にJR北海道がSLを走らせていて、それを写真に収めようとマニアがSLの追っかけをするのだそうだ。グッドタイミングとはこのことである。
札幌と蘭越町間を走らせているこのSLは、札幌から小樽までは速度の関係でジーゼル機関車の助けを借り、小樽から蘭越町までは自力で走る。帰りはSLを回転させる方向転換器がないため、SLはバック走行となり、ジーゼル機関車で押して(引っ張って)札幌まで戻るとのことである。
札幌に本社があったゲームソフトの大手のハドソン社はSLのハドソン号から社名を取っていた。初代の社長はSLマニアでもあって、会社の羽振りのよいときの社長室には何分の一かのSLの大きな模型が飾ってあった。この社長の出身地がニセコ町であったこともあり、この会社がスポンサーになってSLを復活させ札幌、ニセコ間を走らせた事があったのを、塩谷駅を後にしながら思い出していた。
2006年11月06日
みな女地蔵
著者がオフィスを構えている札幌市エレクトロニクスセンターには床屋がある。散髪中に札幌秘境が話題になり、理髪師の自宅の近くに幼子を弔った地蔵がある話をしてくれた。明治の年号が刻まれている古いものだそうである。地蔵のある場所が北広島市なので、札幌近郊の秘境候補に加えようと出向いてみる。
場所は札幌市にあるJR上野幌駅から徒歩で五分程度北広島市に入ったところにある「森のゆ」の近くである。札幌秘境100選にJR上野幌駅を取り上げた時にこの「森のゆ」について少し書いている。「森のゆ」の露天風呂から正面に見える小高い林あたりにこの地蔵がある。この地蔵のある場所に車で行く砂利道もあって、砂利道を挟んで「北海道リハビリー」と名前についた施設の向かい側の山林に地蔵はある。
砂利道から少し高くなっている山林に入ってみると、平らな場所があり、写真の小さな地蔵が紅葉の林の中に一個佇んでいる。標識や説明板のようなものも見当たらない。山林に取り残された野仏といったところである。傍によって地蔵の両側面に彫られた文字を読む。
写真に示す一方の側面には年号と日にちがあって、明治十八年(一八八五年)十二月十一日と読める。もう百二十年も昔に造られてここに置かれていることになる。もう片方の側面には、写真で示すように「みな女」の文字がある。この名前の女児が前述の日にちに亡くなって葬られ、そこに地蔵を建てたと推測できる。
もともとこの辺りは開拓農民の墓地であったらしい。開拓者がこの地に入植した年代が刻まれた地蔵ということで歴史的価値もありそうなのだが、供養することもなくなって忘れられ、野仏となってひっそりと山林に立っている。この辺りは本来の意味に近い秘境の雰囲気である。
北広島市の開拓の歴史を同市のHPで見ると、一八八四年(明治十七年)に広島県人二十五戸百三人が集団移住し開拓の鍬がおろされた、とあるのでこの地蔵が置かれたのは入植の翌年ということになり、この地蔵は広島市の開拓の歴史の始まりを示している貴重な存在である。それが説明板の一つもなく、誰に注目されることもなく、この山林にひっそりとあり、たまたまこの秘境の取材で顔を出している。
2006年11月03日
厚田古潭港弁財船投錨地碑
国道231号線を石狩市厚田支所に向かって北上して走っていると、古潭の地名が出て来て、港が現れたので寄ってみることにする。港の近くには写真の「弁財船投錨地」と彫られた新しいそうな碑が古潭の海を背にして建っている。弁財船とはあまり聞いたことのない言葉で帰宅後に調べてみた。
弁財船とは江戸時代の海の交通で大きな役割を果たした和船で、瀬戸内海地域で発達した。十八世紀以後は、北前船で代表される日本全国の長距離貨物輸送で活躍している。北前船は蝦夷地から日本海と瀬戸内海を通り、日本を端から端にわたってつなぐ輸送手段であった。弁財船の大きなものとなると、千石船とも呼ばれ、絵馬等に描かれている船は、中央に大きな帆柱があり、舳先と船の後部が反り上がっている形をしている。
一八五八年(安政五年)弁財船がこの古潭の地にやって来て碇を下ろしたと碑の横にある紹介文に書かれている。この古潭の海には「弁天ぞり」と呼ばれる自然の岩礁が海に突き出していて、押琴(オショロコツ)湾と呼ばれる天然の良港になっていたのが、ここに弁財船を停泊させる理由になった。
古潭を含む厚田の地の海産物は弁財船で近畿地方に運ばれ、厚田は栄えることになる。財船投錨地碑の隣には「厚田村発祥之地」碑があるから、厚田はこの天然の良港から始まっている。古潭の港の小高い丘にある写真の郷社八幡神社は一八五六年(嘉永九年)に創建されている古い神社で、厚田の歴史の古さを証明している。
ここで郷社とは耳なれない言葉である。これはこの神社が道路の近くにあって、祭神に対して不敬を働くものが多く現れたため、神社を奉還して、その後社格が定まらないので郷社と称しているそうである。神社にも色々社格があるのを知った。
この神社の横から古潭の港が一望にできる。防波堤には車が並んでいるのが見られるが、これは週末釣りを楽しむ人の車である。ここは釣り人に人気の場所なのだろう。しかし、日本海から吹き付ける風が強くて、白い波頭も目立つ。今は秋だけれど、冬になり雪交じりの強風が海から吹きつける様を想像すると、厳しい北海道の冬の海が目の前に広がる。しかし、夏のこの地のすばらしい海も同時に思い描くことができ、今度は夏にこの海沿いの道をドライブしてみようと思った。
2006年11月02日
札幌100秘境の出版の新聞記事
本日(11月2日)の北海道新聞札幌圏版に「札幌100秘境」の出版の記事が掲載されました。記事は下記のようなものです。
また、出版元のマップショップのインターネット販売のためのMAPSHOPYahoo店に商品として出版本がUPされています。アクセス先は次のURLです。
http://store.yahoo.co.jp/mapshop/index.html
2006年11月01日
出版記念会
「札幌秘境100選」の出版記念会が写真展の行われている2日目(10月31日)に行われました。会場は札幌テレビ塔の2Fで、50名ほどの方々に参加していただきました。能村さん(オフィスフリューリング)、藤田さん(つうけんアドバンスシステムズ)の両嬢に受付を行ってもらいました。
会場には花が届いていて、これは秘境探検シリーズのテレビ放送を行っていただいたHTBからのものです。HTBからは形部さんが出席でスピーチを行っていただきました。
お仕事が多忙なか出席していただいた、共著者のお一人の北洋銀行頭取の横内さんには共著者を代表して冒頭のスピーチをしていただきました。
乾杯は本の編集を行った北海道CMCと出版を受け持ったマップショップの両社の黒田社長です。両社からは大きな花束が届いて、会場の雰囲気を盛り上る効果がありました。
本の共著者の一人(一匹?)の福本チョコさんが通訳の福本工業社長福本さんを伴って登壇で、もっぱら福本社長が話していました。福本チョコさんの2冊目の本は来年の早い時期に出版されるそうです。
札幌秘境プロジェクトを新聞で宣伝していただいた、道新の佐藤記者にも話していただきました。このブログにアップしている幾枚かの写真は、佐藤記者から提供していただきました。
毎日午後5時~7時までの「ほくほくテレビ」のアナウンサーを勤めておられるNHK札幌のアナウンサーの礒野さんには放送終了後すぐに会場に駆けつけていただきました。礒野さんとはNHK札幌のテレビ放送で秘境の取材を一緒に行い、放送の画面を今回の本にも採録させていただいています。
司会を務めていただいたのはオフィスフリューリング(代表の岸さんも出席されていました)の山根さんで、スピーチの方々が会の最中に入れ替わるのをうまく捌いていただきました。
ご挨拶、スピーチをしていただいた方々は大勢おられ、一人ひとりのお名前は出しませんが、出版記念会にご出席ありがとうございました。