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2013年11月22日
劉連仁さんの逃避行の初めと終わりの足跡を訪ねる。
重苦しい厚い雲が空を覆い冷たい雨が体を冷やします。
こんな天候なのに、おトしゃん、A先生、温泉マンさんで、劉連仁さんの記念碑を訪ねてきました。
ここは、当別町の小さな公園の一角です。
この近くの山で、1958年2月に劉さんは当別町の方々に保護されて、13年間の飢えと寒さと孤独と絶望の逃避行を終えることができたのです。
その劉さんの想像を絶する苦難を忘れないようにと、2002年9月に地元の人達が小さな記念碑を建立したのです。
A先生撮影の『劉連仁生還記念碑』のパノラマ写真です。
A先生の秘境100選ブログの爪句記事です。
おトしゃんは 不思議な形の『碑』を見たとたん、寒さと感動で身も心も震えてました。
洞穴のような石の彫刻の内側に、玉のようなモノが包まれて入ってます?
この碑は、47歳で無亡くなった彫刻家丸山隆氏の遺作と碑文にありました。
彼は除幕式の2日前に亡くなったそうです。
荒々しい石の中に、真円に磨かれた玉が、静かにジーっとしているようです。
この石碑はこの前に佇むヒトに何を分かって欲しいのでしょうか?
おトしゃんはこの碑には、2つの意味があるのではないだろうか?と、にわか彫刻評論家のような事を云ってました。
一般的な見かたとして、外側の石は劉さんの命を包んで守っていた手掘りの小さな穴を象徴しているのではないだろうか?
そして、丸い石は劉さんの全ての苦悩を超越した姿なのではないだろうか・・・
でも、おトしゃんは、外側の石は寒さに震えている劉さんを現し、丸い石は『湯たんぽ』を現しているのではないだろうか?と、怪しい解釈をしてました。
おトしゃんは例によっていい加減な事を言ってますが、わたしはあながちデタラメでもないように思いました。
おトしゃん自身も、最近の寒さに震える夜は湯たんぽを抱っこして寝ているので、この彫刻の本意が素直に伝わってくるようです。
丸い石の玉は『湯たんぽ』だそうです!
・・・おトしゃんは、碑を見た瞬間、時空を超えて、故劉連仁さんと彫刻の作者故丸山隆氏の心が見えない力と成って伝わってきたそうです・・・
午後、沼田町の役場を訪問し、劉さん関連の資料を見せてもらいました。
昔の新聞の切り抜きも保存されてます・・・
当時の支援者との再会の記事は劉さんの笑顔の写真も載ってます。
おトしゃん達が沼田町を訪問した訳は、沼田町昭和地域には劉さん達が戦争中に中国から強制連行されて、働かされた炭鉱があったからなのです。
当時7000人もいた炭鉱もその後閉山し、いまでは草むす廃墟のようです。
貴重な航空写真や地図も残ってます。
役所の親切な方々は、その炭鉱跡に案内してくれました。
おトしゃん達はパノラマ写真を撮れないものだろうかと目論んでいたのです。
しかし、昭和炭鉱の入り口には真新しいゲートが設置されていて、通行止めに成ってます?
炭鉱跡地は危険な状況なので、立入禁止に成ってます・・・
役所の方曰く、『羆やスズメバハチがヒトが近よらないように廃墟を守っている』そうです・・・
近くの道路沿いにも、炭鉱の施設の廃墟がありました。
わずか40年ほど前には人々が暮らしていた地域が現在では当時の関係者も皆無で、何に使われていた設備なのか、今では応えられる人はいないそうです。
まるで成仏出来無い幽鬼のような建物自身の悲しみが伝わってきます・・・
おトしゃんは廃墟の前に佇むと・・・廃墟に染み込んでいる音や声のようなものが聞こえるようだ・・・と、わたしに言ってました。
投稿者 choko : 2013年11月22日 19:34
コメント
通りすがりさん。
劉連仁さんの事を記したページにコメントを頂きありがとうございます。
おっしゃるように、劉連仁さんの事を知っているヒトは少なくなってしまいました・・・
私は、50数年前に、HBCTVで放映された渥美清さん主演のドラマをかわいそうでかわいそうで涙しながら視ていた記憶が、遠い記憶として心の奥に残ってます。
あの当時なので、もうそのフィルム等はないようです。
本は、アマゾン等で探すと古本があります。
飢えと寒さと絶望の中で生き抜いた事実に畏敬するのみです。
若い世代に、この悲劇も伝えましょう。
投稿者 チョコのおトしゃん : 2016年04月15日 11:29
はじめまして
偶然、劉連仁さんの事件を知り、たどり着きました
恥ずかしながら私も結構いい年ながら(社会人になって十ウン年)
初めて劉連仁さんの事を知りました
おそらく横井さんの名前事を知っている日本人は
数多くいるのでしょうが
劉連仁さんの事を知る人は少ないのではないのでしょうか
最近はキナ臭いことが多いですが
戦争が生んだ悲劇を忘れないようにしたいものです
投稿者 通りすがり : 2016年04月13日 23:17
A先生。
行ってよかったですね♪
昭和炭鉱跡には、熊や蜂がおとなしくしているしかるべき時期に登山装備で再訪しましょう♪
以下は碑文の写しです ↓
劉連仁氏は、一九四四年中国山東省から連行され、沼他の明治鉱業で過酷な労働を強いられていましたが、一九四五年七月にこの炭鉱を脱出しました。一九五八年三月八日、当別の山中で穴居していたところを発見され、翌九日、保護されました。強靭な意志と生命力に寄り、実に十二年と七か月の逃亡生活に耐え、生還を果たすことができました。
時を経て、発見者の袴田清治氏、保護にあたった木屋路一郎氏の招きにより、一九九二年、一九九五年、一九九八年の三回にわたる氏の訪町が実現しました。この交流の中から日中両国の友好と平和への願いをこめた記念碑が生まれました。
二〇〇〇年九月二日、劉連仁氏は八七歳の生涯を閉じました。
二〇〇二年九月一日、ご子息の手によって碑は除幕しました。
碑は彫刻家丸山隆氏の遺作でもあります。御影石の原石をもちいて、劉連仁氏の苦難の穴居生活をみごとに象徴しています。
二〇〇二年九月一日
劉連仁生還記念碑建立実行委員会
投稿者 チョコのおトしゃん : 2013年11月22日 22:35
今日はご苦労様でした。劉連仁生還碑を見ることができ、成果です。生還碑の制作者は故丸山隆氏でしたか。碑文(説明)を読み飛ばしていました。沼田町昭和の炭鉱跡の写真を撮ることができなかったのが、心残りでした。
投稿者 A : 2013年11月22日 21:53